父亡きあとは、母はずっと一人住まいをしていた。八〇歳くらいまでは「一人は最高」と高らかに公言していたが、体力の衰えと共に、娘がたびたび傍に来て自分の話し相手になってくれる事を願った。
しかし、他県に嫁いでいる娘たちは母の昔話、何度も聞いたしょうもない話を聞きに来る時間も、心の余裕もなかった。
亡くなる二日前、又同じ事を言った。
「私のいちばーんの幸せは娘三人と居る事なの」独り言のように、歌うように、まるで遠い昔の、子供たちがまだ小さかった頃の、思い出のスクリーンに向かって話しているようだった。
だが、私に相手にされないとわかると、だまって縁側に座って長い間じっと庭を見ていた。何を考えていたのだろうか。
その後ろ姿は痛ましいほど小さく、か細く、弱々しくて、いつもの気丈な人の姿とは思えなかった。しばらくすると庭に出て、自分が植えた水引き草を摘んできた。小さな赤い可憐な花をつけている
この茶花を、母は銅製のつる首に生けて玄関に置いた。
そして二日後、私がブラジルに向けて出発する日の朝、母は倒れた。
「私の一番の幸せはね、三人の娘と一緒にいることなの」
あんなに願っていたのに…と思うと、素っ気なくあしらったことに胸が痛み、せめて母の思いに報いたい。
通夜は娘三人だけで過ごす事にした。
たくさんのユリ、菊、トルコキキョウ、ラン、いろいろな白い花に囲まれて一生が終わった。母の願いがやっと叶った日、冷え冷えとした玄関にみずひき草の赤い花が散っていた。
(二〇一一年)
母の残した石
背丈より大きな古い桐のタンス、ここには母の大切なものが入っていることを小さい時から知っている。何かとても神聖な場所なのだ。だから勝手に開けたことはない。
母が亡くなって初めてこのタンスを開ける時、なんだかドキドキして「お母さん失礼します」と声を出して言った。
まず真ん中の開き戸を開けた。
ここには着物ばかりがあった。その下の三つの引き出しにも着物ばかり。上にある横並びの三つの引き出しには、ネッカチーフ、ジュエリー、財布、預金通帳、鍵、そして一番上の引き戸の中にはハンドバックがびっしり並べてあった。
その一番端に目がひきつけられた。
母が作った紺と白のロウケツ染めの抱えのバック。戦後、私が小学生の時、母は白い帆布を買ってきて、自分でデザインをして染め上げた自慢のバックなのだ。
廊下にしゃがみこんでロウケツ染めをしている母の姿が、急に目の前に広がった。丁度私が夏休みの時、六〇年以上も昔のことだ。
あの頃、夏は毎朝氷屋がリヤカーに氷を載せてやってくる。金魚屋が天秤を担いで通りがかる。キンギョ―キンギョーという声が今でも耳に残っている。炭屋、豆腐屋、竿屋、魚屋、いろいろな職業の人たちが、家の前を通りかかる。そんな時代だった。