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どこから来たの=大門千夏=(47)

アメリカ移住

 一九七三年の第一次オイルショック以来,ブラジルでは経済の低迷が続いた。国民の貧困化がすす み「未来の国」の生活はいっこうに良くならない。それどころか生活はますます厳しくなって行った。
 その頃、私たち家族がつきあっていたのは台湾から来たエンジニアの人たちがほとんどで、日本人との付き合いは少なかった。
 彼らの興味、話題の主流は何といっても金儲けの話。さすが中国人で、買ったどこそこの土地が倍になったとか、誰やらはぼろ家を買ったが、今そこが商業区域になって家賃収入が上がったとか、ひたすら金、金もうけ。サラリーマンが清く正しい職業だと信じている夫にとっては別世界の話題だった。
 ある時、この国には将来性がないと言ってアメリカに再移住する話が持ち上がり、その内の一家族が半年すると本当に親戚をたよってアメリカに移住していった。そして一年後には彼が後輩を呼んで二家族が行き、そのようにして次々と八家族が再移住していった。
 ぐずぐずといつまでたっても決断できない私たち夫婦に最後に出発する友は、「行こう、この国には未来がない。アメリカに行こう、向こうはブラジルよりずっと景気が良い。治 安も良い。教育も進んでいる。政治も良い。何を比べて見てもアメリカの方がここよりずっと良い。行こう一緒に行こう」そういって盛んに薦めてくれた。
 しかし、我が子供は小学校三年生と一年生。二人を連れて、これからまた新しい国にゆき、言葉を覚え、仕事を求め、生活してゆく勇気はなかった。
 三年後にはついに私たちの周りにいた親しい台湾人のエンジニヤ家族は残らず行ってしまった。小、中学生の子供、高校生の子供を連れている人もいたが、子供のことに関しては彼らは何一つ心配していなかった。
 簡単に家族ぐるみ外国に、家財を処分して、棋の駒を動かすように、ヒョイヒョイと移動して行く彼らの行動力には驚きの連続。勇気あるなーさすが中国人だ。彼らが住んでいた家の前を通るとき懐かしさと、いつも尊敬の念がわくのだった。
 時は移り、日本はバブルというかつてないほどの繁栄を迎え、私は遅蒔きながら骨董屋を始め、なんとかバブルの最後の景気を少しばかり味わっただけで、突然夫が逝ってしまった。
 その後も一人で骨董屋を続けていた。仕入れのためにアメリカやヨーロッパに行くたびに、その地で成功している日本人の骨董屋に出会うと、――あのときアメリカに行っていたら、私だってこのくらいにはなれたのに――と、悔しくて悔しくてしようがない。
 引き返す事のできない「あの時」。
 せっかくのチャンスがあったのに自分の決断力のなさ、勇気のなさ、行動力のなさ、大きな夢を持てない気の小さな自分、先見の明のなさ、などなどを考えると自分が情けない。もし行っていたら今の何倍も儲けただろうし、英語も達者、アメリカに家を持って日本に行っていたらバカにされないで済んだであろう。
 ブラジルに住んでいるというだけで母までいやな軽蔑した顔をした…などと何時までもジクジクと後悔していた。我が人生最大の悔恨なのだ。
 この情けない話を娘に話す事もはばかれた。