しかし母はめげず私を教育するつもりだったらしい。小学三年生の頃「女の子は漬物桶のぬかを混ぜる位の事はしなくてはいけない」と言って、私に毎日一回手で混ぜることを命令した。
台所の隅に置いてある陶器の壺の蓋をあけると、中には汚ならしい黄土色のべとべとどろどろしたものが入っており、悪臭を放っているではないか。私は目をつむり息をしないようにして右手で大急ぎでかき混ぜながら大粒の涙をぽろぽろ流した。私の指は洗っても洗ってもにおいが染み込んで取れなかった。
数日続いたある日、母の友人が訪ねてきた。母はおかしそうに、私が涙を流して漬物桶の中を混ぜていることを話すと、友人は、「今はもう戦争も終わって昔と違うのよ、漬物を混ぜるのが女の仕事という時代ではありません。女もこれからは自分の意思で歩いてゆく時代が来るんだから、それほど嫌がることを無理やりさせる必要はないと思う」と言われ、母は素直に納得して、私はこの仕事から解放された。
それ以後は、おおっぴらに「漬物嫌い」で通るようになった。漬けるという字のついた食べ物はすべて嫌いである。生臭いヘンなにおいがするからだ。食卓に乗っているのを見ただけでゾッとして鳥肌がたつ。一枚のまな板を使って何でも料理したのだろうと想像するだけで目の前が暗ーくなる。途端に食欲がなくなる。
小学生の頃はよく妹と喧嘩した。体力では私が勝つが…すると妹は必ず、「今夜お姉さんが寝たらタクワンを顔の上に乗せてやる!」と叫ぶ。自分の顔の上にタクワンを乗せられた姿を想像しただけで心配で心配で眠れない。妹が寝息を立てるまで見張っている。完全に私の負けだ。だから出来るだけ妹とは喧嘩をしない。
およばれした時いちばん困るのは漬物を触った箸で別の皿の御馳走を触る人がいる事だ。若いころはこんな光景を見て貧血を起こしたことがあった。そう言う人を見ると「あの人は育ちが悪い」「教養がない」「品がない」「臭覚が悪い」「美意識なし」「味覚はゼロ」「野蛮人だ」とありとあらゆる大悪口を言う。
何を言っても母はバカバカしいと言った顔をして取り合ってくれない。それどころか母も妹も漬物が大好きだから始末が悪い。食事が終わると、「ハイ、これから私達は漬物をいただきますよ」と母が言う。私はごちそうさまと言って隣の部屋に退散する。彼女達は嬉しそうに楽しそうにあの気味の悪いエサを喜々として食べている。
世の中には何ゆえにこんな物を食べる人種がいるのだろうか不思議でしようがない。どうしても理解できない。しかし妹は、「あんなに嫌い嫌いと言ってるけど、お姉さんが死ぬときに、何か思い残すことは?・・・と聞いたら、ゼ・ッ・タ・イ…漬物が食べたかった…というに違いないわよ…イッヒヒヒ」と冷やかす。
こうして触ったことはあるが食べた事はない、食べたいとも思わない、写真を見ているだけでも鼻の先に匂いがしてくる。吐き気がする、話題に出るだけでも我が人格を否定されたようで不機嫌になる。
夫には結婚前から伝えてあるから今更文句ナイダロウと威張ってきた。子供たちには「あれは人間の食べ物ではありません」と教えてある。我が家では絶対食卓に乗ったことがない。
しかしまだまだ食わず嫌いは山ほどある。果物はほとんど嫌い。あのねっとりした甘ったるい匂いが胸を圧迫する。もちろんニンニクやネギ、匂いの強い野菜すべて食わず嫌いなのだ。味噌、納豆の匂いも嗅ぎたくない。