ブラジル日系社会における文芸活動は、日本移民の歴史と共にあり、今年で一一〇年の歳月を重ねる。中でも俳句はその先がけとなるが、同じ短詩型文芸でも川柳は愛好者が少ないゆえもあって、嚆矢となる作品の記録は、俳句のように正式には残されていない。
邦字紙の片隅の文芸欄に記載されたといった、ごく漠然とした歴史の始まりにすぎず、それは他の文芸分野と同様、消耗品である新聞とともに散逸の運命を辿った。
しかしながら、愛好者人口が少ないとはいえ、川柳もまた伝統ある俳句や短歌と歩みを共にし、今日まで延々とその歴史の歩みをたゆまずに継続しているのは欣快にたえないところである。
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「サンパウロ新生吟社」と呼ぶ川柳結社の誕生は、今から六八年前に創立された「ブラジル川柳社」(全伯的組織の柳人団体)と同年同月の、一九五○年二月に発足している。
当時川柳活動の主要メンバーの多くが、サンパウロ市やその近郊地帯に在住していたため、その二つの団体は、あたかも〝二卵性双生児〟のごとくこの世に誕生し、殆ど時を同じくして活動が始まったわけである。
メンバーも双方掛け持ちが多く、一方は全伯にその輪が広がり、他方はサンパウロ市とその近郊に対象者がしぼられたようである。
「新生吟社」の活動について言えば、当初は月々の句会と、邦字紙文芸欄への作品発表が主であったのだが、創立から一六年後の一九六六年一二月に、「新生吟社月報」というパンフレット形式の発表機関紙を発行し始めている。
当時、パウリスタ新聞社に勤務しておられた岡村さとほろ・鈴蘭夫妻が、新聞社から出る余分の紙を利用して謄写版刷りの、いわゆる「紙上句会」を設けたのが始まりであったという。
その「月報」が五○年の歳月を経て、去る二月、延々六○○号の発行を見るに至ったのである。特筆すべきは、一回の休みもなく毎月欠かさず発行されたこと。これは発行者の地道な努力と、会員たちのたゆまぬ熱意がなければ成し得なかった金字塔である。
因みに、「新生吟社」の歴代発行者(主幹兼編集者)は、岡村さとほろ、安村玉泉、石田馬笑、上野明星(二期担当)、黒田不知火、柿嶋さだ子、青井万賀の諸氏。中でも上野明星氏は二期合計一六年、柿嶋さだ子氏は連続一四年の長期にわたって担当され、その母体を揺るぎないもの育て上げた。
次に掲げるのは、去る二月に発行された六○○号に寄せられた吟社各柳人の祝句である。
・六○○号川柳の灯に囲まれて 柿嶋さだ子
・祝川柳句会月報六百号 荒井 花生
・いざ酌まん六百号の祝い酒 今立 帰
・六○○号異国に咲きし句の歴史 大城戸節子
・六百号祖国に届け移民魂 堀内のぼる
・六百号何と嬉しいニュースでしょう 彭鄭 美智
・先人を偲んで祝う六百号 渡辺 文子
・幾山河越えて迎えた六百号 飛松 信雄
・六百号祝って吟社の栄祈る 坂口 清子
・おめでとう六○○の重ね事 大塚 弥生
・句友達祝六百号月報に 斉藤 晃伯
・六百号新吟月報まだ続く 秋吉 寿子
・祝杯をかかげて嬉し六百号 毬井 べる
・おめでとう新生月報五十年 かんばら
・六百号祝う移民の文学熱 堀江 渚
・祝吟社六百号の金字塔 西田はるの
・初句会月報六百号を祝して 井上 風車
・半世紀新生吟社の六百号 早川 量通
・六○○号手にずっしりと来る歴史 青井 万賀
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ブラジル在住の現役柳人は、各結社への参加数から推定して五○名前後とみてよいだろう。その内「サンパウロ新生吟社」に参加されている柳人は二○数名、中には実作者以外の人も含まれており、全伯柳人のほぼ半数を占めている。
川柳は実生活(社会生活)の中に派生する諸々のことを、風刺(皮肉)や諧謔(ユーモア)、ペーソスなどで味付けした〝庶民のうた(詩)〟である。
いわゆる〝喜怒哀楽〟を基調にして、俳句と同様五・七・五のリズムに乗せて表現する文芸で、幅の広さと文学的な奥の深さは他の文芸分野とはその質を異にしている。
俗に「俳句(や短歌)で表現しきれないものはすべて川柳が引き受ける」と言われるのも、川柳の特異性を表している。短詩型文芸で移民社会最後まで生き残るのは俳句であろうとされているが、それは案外、川柳であるかも知れない。
なぜなら、まさに川柳は〝心のうた〟であるからである。吐息とともに生まれ出る〝うた〟であるからである。(参考文献「ぶらじる川柳社・移民百周年記念句集」)
(二○一八・三・五)