氏原綾乃さん(静岡、29)。ホス建設で研修を行った
私の地元である静岡県には、日系ブラジル人のデカセギを受け入れる工場が多くあり、私は学生のころからブラジルにルーツをもつ同級生たちと一緒に育ってきました。
常に身近にあったブラジルをことさら意識し始めたのは高校生の時。3年間同じクラスだった大の仲良しの友達が日系三世で、彼女の家族とも親しくなるうちに、自然と彼らのコミュニティにも足を踏みいれていくことになりました。
学校では私たちと同じ高校生なのに、家庭でのお母さんとのやりとりはポルトガル語。両言語を操る彼女がかっこよく見えたのを今でも覚えています。私は語学を勉強することが大好きで、今まで、ワーキングホリデーや一人旅で15か国を訪問しました。
初めてブラジルを訪れたのは、20歳の時。友達の家族の里帰りに同行しました。行き先はパラナ州カンポ・モウロンのおばあさん宅で2カ月滞在しました。
イタリア系のご家族で日本語はゼロ。友達が間に入って通訳してくれていましたが、ポルトガル語が分からないと伝えても、私に向かって平気で話し続ける親戚、近所の人々にはビックリしました。街に出ても、お店に入れば誰かしら話しかけてくる。そんな日々に戸惑いましたが、おかげで簡単なポルトガル語は分かるようになりました。
その後、アイスランドにオーロラを見に行ったり、イランにイスラム文化を体験に行ったり、インドで象に乗ったり…ほかの国でもいろいろと楽しい思い出はあります。ですが、ふと思い返すと、ブラジルで経験したような、現地の人々が分け隔てなく外国人である私に話しかけてくれるということは少なかったように思います。
ポルトガル語をもっと勉強したい、コミュニケーションがとれるようになりたい、いつかブラジルに戻ってこよう、そのときは長く滞在したいな、という思いがずっと心の片隅にありました。そんなときに見つけたのが、今回1年間お世話になったブラジル日本交流協会でした。
9年ぶりのブラジルは、サンパウロのど真ん中での研修となりました。パラナ州の田舎町というブラジルの初印象とは打って変わって、サンパウロがあまりに大都会なことにまず驚きました。着いてしばらくは、大都会の恐怖におびえつつ、研修先からベルゲイロ駅までの橋をびくびくしながら歩いていたのを思い出します。
研修先のみなさんはとても温かく、すぐに一員として迎えてくださり、交友関係を深めるのに時間はかかりませんでした。日系企業だったので日系の方が多く、オフィスの中は日本の会社とあまり変わらないように見えました。ですが、同僚と知り合っていくうちに、働き方が大きく違うと感じました。
まず、みんな本当によく会話します。最初慣れない頃は、日本の感覚で、仕事中の談笑に周りの目を気にすることもありました。ですが、しばらくして、むしろ黙々と頼まれた仕事をしていると元気がないのかと心配されるということがわかりました。研修後半は、肩の力を抜いて一緒になって冗談を言い合う余裕もでき、一歩ブラジル人に近づけたと思います。
もう一つ違うと思ったのは、仕事のほかに打ち込むことを持っている人が多いこと。昼休みジムに走りに行ったり、会社が終わったら大学、週末はサッカーなど、仕事以外を楽しむバイタリティーがすごいと思いました。
わたしもそれを見習おうと、ブラジル箏曲宮城会の長瀬先生のもとでお琴を習ったり、鳥取県人会の青木先生の日本語教室を見学したりと、様々な活動に参加させてもらいました。どの活動に参加するにも、お願いをしたら快諾してくれました。ブラジルのいいところは、万人を歓迎して受け止めてくれる人の温かさだと改めて実感しました。
日本はどちらかというと、近年だんだん人との繋がりが希薄になりつつあります。その分、私にはブラジルの熱烈な人との繋がりが新鮮で、とても心地よいと感じました。
今年一年は、研修先や交流協会の方々の全力のサポートがあったからこそ、自由にブラジルが楽しめたと思っています。
いつかまたブラジルに戻りたいという気持ちがあります。ですから、次は自分の力でブラジル社会に入っていけるよう、これからの日本で自分に何ができるかを考え、次のブラジル滞在の準備をしたいと思います。