お世話になったわね、ありがとうと声を出して言い、何時もならこれで古着の整理ができた、また新しい服を買おうと喜んでいたのに。しかし今日はなんだか気持が弾まない。
一〇年以上も愛用したセーター。私の家から五〇〇〇㎞も離れた知人もいないこの寒く冷たいウシュアイアの土地に残してゆく。
こんなところにたった一人、寂しいだろうな、悲しいだろうな。ふしぎな罪悪感をもった。
今までこんなことを考えたことはなかった。年を取ってやさしさや思いやりが増えたのだろうか、ケチ精神が多せいになって捨てられなくなったのか、それともこの服と同じように古くなった自分を知って、いとおしくなったのだろうか。
窓の外ではビュービューと地の底から唸るような底冷えする風の音が聞こえてくる。手を伸ばしてセーターをつかむと又かばんに入れた。
ごめんね、ごめんね、おうちに帰ろう、一緒にかえろう。
いつの間にか、あれから二年経った。
あの時、南極の青い氷を見られなかったが、今もってあきらめてはいない。またの機会がきっとあるに違いない。青い氷が目の前にちらつく。いつか見せてもらえるときがあるだろう。それは南極に行くなと言われた神さんが「行ったらいいよ」といわれるときだ。
そうだ、お正月に頼みごとをするのは良いかもしれない。
納屋から夫の「宝物箱」を取り出すと、中から大きな羅針盤を取り出して、きっちり南極に合わせた。深々と二回お辞儀をして、そして柏手を二回打ち、それからまじめに心を込めて祈った。
「あんまり遅くなると体力がついてゆけなくなります。どうか早めにお願いいたします」するとどうだろう、必ず叶えてもらえるという深い深い安ど感につつまれた。
――「あなたは心底おめでたい」母の声が聞こえてくる。 (二〇一二年一月)
一杯のラーメン(ラオス)
ラオス東北にサムヌアという絹織物で有名な町がある。
外国からバイヤーがたくさん来るせいか、やたらとホテルが多い。それもフランス様式にド派手な中国式を取り入れて、いわゆる「成り金趣味ホテル」が立ち並んでいる。しかし昨年起きたリーマンショックの影響か、今、観光客は少なく、どこのホテルもガラガラである。
私は友人の智子と四日前から手織りの絹織物を見に来ている。
夏の朝八時前、サムヌアの陽は高々と登り、直射日光はきつい。
中央市場の古びた建物の前で、破れたピーチパラソルを広げて、中年の太った女性が赤いエプロンに竹で編んだ三角帽子をかぶって、一人で屋台を切り盛りしている。
お客が立ち食いしている。一杯、大は六〇円、小は四〇円。大鉢に透明な麺(うどんと春雨のあいのこ)を入れ、スープを掛け、その上にもやしと肉片が五個、青い葉っぱが三?四枚浮いている。私は彼女の慣れた手つきに見惚れて手の動きをじっと見つめていた。なんだか美味しそう。
いつの間にか子供が五人傍に寄って来て屋台を取り囲んでいる。皆、乞食のように薄汚れているが、色白の顔は愛らしくあどけない。兄弟だろうか、一番下は四?五歳の男の子、しっかりした顔付きの長女が一二歳くらいか、四人の女の子は大きな籠を背負っている、皆、とても細い手足をしてシンというこの国独特の巻きスカートにゴム草履をはいている。