仕方なく五万ドン札二枚を出すと彼女は黙って受取り、黙って品物を手渡した。そしてお釣りをくれる為に小さな巾着を開けたが、そこには二〇〇〇ドン(日本円で一〇円)のお札しか入っていなかった。これで何が買えるのだろうか。私は小さいお金を揃えて七万ドンきっちり払った。
陽が暮れ初めると、高原の冷たい風が霧雨をもたらした。雨季がまだ続いていた。 帽子を被り、ホテルに向かって坂道をゆっくり登っていると、いつの間にか又あの少女が私の側にいた。
「ユウ・ハッピイ?」と彼女は遠慮そうに聞いた。
「エエとてもハッピイよ、あんたは?」
「アイ・ノー・ハッピイ」と下を向いて悲しそうに答え、それから手真似で刺繍をする真似をして「ワン・マンス」と言った。
えっ、思わず足を止め、一ヵ月も? ――顔を見た。細面の色白の美人だ。民族衣装の藍色がよく似合う。まっすぐな細い鼻、一文字に結んだ唇に悔しさがにじみでている。
一重の長い目、私はおどろいてその場に釘ずけになり、じっと眼を見つめ、私そんなに悪いことをしたの?と思いながらそっと右手で彼女のホホをなでた。女の子特有のふっくらさはなく、冷たく引き締まった筋肉を感じるだけの堅い頬だった。一四?一五歳だ。私の孫より幼い。霧雨が容赦なく彼女の顔を濡らし、じっと私を見つめている黒いまつげの下に涙がたまった。
今、初めて彼女の心の中を覗いたような気持ちになった。山の中で生活して、毎日昼は野良仕事をしたり、農産物を売りに町に来たり、そして合間を見て電気もない生活の中で手仕事をしたのだ。
もしかしたら初めて作った商品だったのかもしれない。しかし現金収入を得ることは大変なこと。あの財布の中を思い出した。今日はまだ何も売れていないのでそれで私に安売りしたのだ。
ホテルに帰って改めてよく見ると、小さいけれど立体感のある大変手の込んだ刺繍がしてあった。成るほどあれだけ怒った顔をしていた理由が今、良くわかる。一ヵ月間、遊ぶ暇なく針を動かしてやっと作り上げた品。それを七万ドン(三五〇円)に値切られたのだ。彼女にとって一五〇円は大きなお金だった。
私とはほんのひとときの出会いであった、生涯二度とあうことはない。それなら尚更の事、幸せな思い出を持ってほしいのに暗いイヤな屈辱の思い出を植え付けてしまった。ケチな日本人…きっとそう思っているに違いない。明日はどうしても彼女の品物を買ってあげなくては。
翌朝バルコニーから見わたすと谷あいには真っ白い霧が広がり、その中から赤い屋根の家々が覗いている。まるで絵葉書を見ているようだ。
何時までたっても霧は晴れない。三〇m先が見えないほどの濃霧の中をチョコレートのプレゼントを持ってホテルをでた。是非彼女に会いたかった。メインストリートに向かい、市場、広場の隅、公園、彼女の行きそうな場所をずっと見て回った。陽が昇り霧が晴れて午後は街角にじっと立って行く人々を眺めた。民族衣装を着たたくさんの女どもが行きかっている。
が、あの少女だけはいない。名前も知らない、村の名前も知らない、写真を撮っておけばよかった、などと後悔することばかり。行ったり来たり夕方までうろうろしたがついに見つからなかった。
今日は村で畑仕事をしているのだろうか、それとも手仕事に情熱も意欲も失くしてしまったのだろうか。そう思うとたったの三万ドンを払い渋った自分に責任があるような気がして心から可哀そうなことをしたと悔やまれた。