《幾山河ここに恋あり命あ里》という川柳を見た覚えがないだろうか――サンパウロ市リベルダーデ区ガルボン・ブエノ街の大阪橋のたもとにある、日本庭園を入ったすぐ左に建てられている句碑の作品だ。
東洋街に出入りしながら、心を焦がすような熱い恋をして、命を削るような辛い思いをした人は、ここは異国の地だが一種の故郷(里)のように感じる――そんな想いが込められている。東洋街だけでなく、全ての移住地、植民地に当てはまる名句ではないか。
だが、句碑の作者名の部分だけが、なぜか最近刻んだように見えるのを不思議に思っていた。ところがこの週末、偶然にその理由が判明した。安藤魔門の川柳句集『卍』(1997年、黒田不知火編)に掲載された句碑の写真には、名まえが刻まれていないのを見て、膝を打った。
しかも10頁に、《読み人知らずになっているが、著者も書いている通り、東洋街造成委員長の許諾を得て建立されたもので、紛れもなく安藤魔門の作品である。コロニア川柳の歴史と共に、不滅の光りを放ち続けるだろう》(編者)と書いてある。
魔門本人も同7ページに、《ガルボン・ブエノ街を基準に一体が東洋街と市役所から認定され、それに相応しい諸施設が進められていたが、大阪橋の側の空地を日本庭園とすることが決まり、全庭園を造るに必要な樹木一切を取り仕切ることを提言しておられた、石山白頭は条件として庭園内に「句碑」を建てることを容認させ早速魔門へ句を選べとウムを言わせぬ情熱に、他に迷惑をかけぬことを黙約、即座に「幾山河」の句を提示して、東洋街造成委員長の認承を得て建立になったもので、元より句主不在は問題の外である》と書いている。
つまり、日本庭園の建設を任された石山白頭が、句碑建立を条件に引き受け、即座に魔門に作品を選ぶように依頼。そのような目立つ場所に自分の句碑ができることで、川柳界に波風が立つことを恐れた魔門は「匿名」を条件に引き受けた。以来ずっと「読み人知らず」で通されていたが、魔門が91歳の時に黒田不知火が句集を編纂、1997年になってようやく公けになった訳だ。おそらくその後に作者名は刻まれた。だから、そこだけ新しいのだ。
はて、いつこの日本庭園はできたのか―との疑問が湧いた。
『リベルダーデ』(同商工会発行、1996年)を見ると、1969年にサンパウロ市大阪市姉妹都市提携の手続きが始まり、リベルダーデを「リトル東京」とする構想のもとにサンパウロ市が「東洋街」認定をした。さっそく同年11月には第1回東洋祭りとして盆踊りを開催。同書によれば祭り会場となったリベルダーデ広場は《当時は樹木の多い公園》だった。
その流れの中で70年にガルボン街の陸橋を「大阪橋」と命名。市観光局が日本的な街路に改修することを推奨し、73年にガルボン街の日本庭園造成となる。つまり、魔門は73年から97年まで24年間、「読み人知らず」で通し、人生の最後の最後で明らかにした。奥ゆかしい人だ
魔門の本名は、善兵衛。宮崎県日南市に1906年に生れ、1927年に鎌倉丸で渡伯。31年、コーヒー園でコロノをしていた頃、日本の雑誌『改造』で井上剣花坊の川柳に触れて虜となり、当時唯一の雑誌だった『農業のブラジル』の川柳欄に投句を始めた。農業者のこだわりから、マモンに「魔門」という漢字をかぶせたのだろう。
戦後1950年に「ぶらじる川柳社」を結成、機関誌「ぶらじる川柳」を発刊した際の創立メンバーだ。さらに53年には第1回全伯川柳大会を開催。これは現在まで続き、今年9月15日には第65回大会を予定する。
句集を紐解くと味わい深い作品ばかりだ。《飛び降りて見れば此処にも生きる道》《振り上げた掌を撫でて春の風》はどん底を知る者にしか詠めない。家族が亡くなった場所であっても土地が痩せれば転住せざるを得ない。そんな辛い心情を詠った《墓一つ守る術なく転耕す》や、《君が代を歌えば泣けてくる異国》はまさに移民の心情を読み込んだ句だ。
東洋街を詠んだ句には《味噌の香の流れてここは日本街》もあった。でも冒頭句の深みは、やはり格別だ。句碑ができた時に魔門は67歳、自他ともに認める堂々たる川柳人であったはず。でも、読み人知らずを貫いた。川柳人の粋を感じさせる逸話ではないか。
リベルダーデのあちこちにはそんな日本移民の営みが、ひっそりと刻まれている。昨日は110回目の移民の日だった。110周年式典まで、あと1カ月。移民150周年を意識して、今何をするべきかを考えながら当日に臨みたい。(深)