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感動の眞子さまご来伯を振り返って

平野植民地の慰霊碑に献花され、深々と頭を下げられた眞子さま

平野植民地の慰霊碑に献花され、深々と頭を下げられた眞子さま

 ブラジル日本移民110周年を記念して訪問された眞子さまは、かつて皇族が足を踏み入れたことがなかった地を何カ所もお訪ねになり、各地で祈りと癒しを実践された。本紙記者が各地で取材した内容からご訪問のハイライトを振り返りたい。
 最たるものは、ノロエステ開拓最前線でマラリアと戦いながら亡くなった先駆者に対し、皇族によって初めて花束が供えられたことだ。
 1915年、入植開始わずか半年で80人以上の日本移民が次々とマラリアで斃れていった平野植民地。当時は原始林の真っただ中、川沿いで米作向きだと思われていた第1区は悲劇の現場だ。そこに1946年、村人によってひっそりと慰霊碑が建立された。
 リンス西本願寺の岡山智浄住職(83)は、「その場所はブラジル人牧場主に売られ、牧草地帯となっていた。慰霊碑の場所には牧場主の家が建っていたんです。その牧場主は昼夜を問わず、女子供の泣き声が何処からともなく聞こえてきて、『なんでここに連れてこられたの?』とすすり泣く女性の声を幾度となく聴いたと言うんです」と本紙記者に証言した。「同ブロックのあちこちに埋葬されていた遺骨を集めて、この慰霊碑を建立して納めた。それからピタリと泣き声が止んだんです」。
 7月23日午前、眞子さまは、見渡す限りのサトウキビ畑に立つ「開拓先没者慰霊之碑」の前に立たれ、深々と頭を垂れ、鎮魂の祈りを捧げられた。
 皇族が自分の先祖に花束を捧げている姿を見て、地元の森部静代さん(68、三世=カフェランジア在住)は感極まって泣き崩れてしまった。眞子さまはそれを見て、森部さんを優しく抱きしめ、「大丈夫ですよ、大丈夫ですよ」―そう声をかけながら寄り添われ、森部さんが落ち着くまでじっと抱きしめられた。
 次のアラサツーバではノロエステ連合主催の「歓迎昼食会」にご臨席された。
 食事の後、眞子さまは「昼食がとても美味しかったので、ぜひお礼を申し上げたい」と希望され、予定にない婦人部とのご接見を始められ、普段は裏方の〃エプロンを付けた民間大使〃に労いの言葉をかけられた。婦人らは「本当にもったいないこと。嬉しくて言葉もでない」と格別なご配慮に感激した。
 この逸話を記者から聞いて有難いと感じると同時に、返すがえす残念に思ったのは、サンパウロ市の県連日本祭りでは、主役である県人会婦人部や青年部がいる食の広場を、眞子さまがお通りになられなかったことだ。
 7月27日午前、眞子さまはパラー州のトメアスー文化農業振興協会(ACTA)をご訪問された。眞子さまが乗る飛行機到着に合わせて、日系学校の生徒が校庭に並んでハート型の絵文字を作り、日伯の小旗を振る「プロジェト・コラソン」で大歓迎した。
 同校の生徒は普段古タイヤを重ねて和太鼓の練習をし、歓迎会の当日だけベレンから本物を借りて眞子さまに披露した。その子供たちが声を合わせて「遠くまでご訪問くださり、ありがとうございました!」と感謝の気持ちを伝えた。
 その時、隣に座っていたトメアスー農業協同組合の乙幡敬一アルベルト理事長は「眞子さまの頬に涙が伝っていた」という。
 トメアスーご到着時、まず墓地内の日本人開拓先没者慰霊碑に向かわれた。白いドレスと手袋をはめた眞子さまは慰霊碑に献花後、深々と頭を下げられた。
 この墓地には、移住地に支援を惜しまなかった千葉三郎日伯議連会長、南拓を主導した鐘紡の武藤山治社長、開拓最前線で悪戦苦闘した福原八郎南拓社長、胡椒をもたらした臼井牧之助氏、東京農大拓殖科の杉野忠夫初代科長ら5人の墓もある。
 千葉氏は39年前、アマゾン移住50周年式典に出席するために来伯する途上、メキシコで客死した。千葉氏のような恩人を思い起こすたびに、日本の国会が延長した関係で、110周年には誰も日本政府代表が来なかったことが残念でならない。
 来年はアマゾン90周年。ぜひ、それにふさわしい日本政府代表に来て頂きたい。
 トメアスー総合農業共同組合(CAMTA)の元理事長、伊藤譲二さんとご接見された際、眞子さまは「両親がトメアスー移住地訪問を望んでいて、今日私が来ることになりました」との顛末を話されたという。
 今回、各地の日系社会ができる限りを尽くして歓迎したことを、両陛下はもちろんご家族の皆様にぜひお伝え願いたいものだ。(深)