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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(26)

 もし私が耐えられずに肩を外して逃げると、四人は支えきれなくなってこの巨大な松材の下敷になるだろう。そうなれば、死ぬか大怪我をするに違いない。外の四人もそう思っているだろうと、渾身の力をこめてふん張った。
 背骨の下方のあたりが、ピシピシと数回音をたて、思わず私はよろめいた。長棒組の二人が、すかさず材木の両端を支え、どうにか荷台に押し上げて、助けてくれた。二本目の材木を荷台に押し上げた後は、精も根も尽きてしまった。カンボーイは情容赦もなく、さらにもう二本積めと強要した。銃口を向けている。射つなら射ってみろと銃口をみつめ、断固拒否した。
 コルホーズ(集団農場)でのジャガイモの収穫は、枯れた茎を引く原始以前のやり方で、唖然としたことだった。
 ここでは、積雪中の伐採など一歩間違えれば死か大怪我になりかねない危険な作業を、すべて人力でやっている。この国は他国を侵略するための武器製造を最優先とし、そのための重工業を充実させた。ソ連軍が満洲国内に侵攻した際に見聞して、熟知していた。
 なのに平和産業は置去りにされ、鍬のような簡単な農具すら皆無の状態であった。動力を必要とする伐採には、重工業力を一寸だけ転用すれば、危険な木材の諸作業を、楽々とこなす機械類が、いくらでも製造することができたはずである。それをしなかったソ連という国の矛盾に、共産主義思想の裏をしっかり見届けた。
 栄養失調症の哀れな捕虜を伐採という重労働に追い立てたソ連国家の冷酷無情さを、僅か一日だけの応援で身にしみて感じた。一日だけであったが、一ヵ月以上の力を使い果して帰った。
 二本だけであったが、材木をトラックに積み込んだ時、背骨のどこかが、数回ピシピシと音をたてた。それから一六年後、ブラジルで独立農として、ピエダーデ郡に小農場を持ってから腰痛に悩むようになった。レントゲン写真をみて、腰椎五コが全部変形しているのが判明した。これはあの材木を人力で押しあげて、背骨がピシピシと鳴った時に生じた変形である。それ以外、腰骨五コが耐えかねるような重量物を扱ったことは、一度も経験していない。
 腰痛は年を重ねるたびに強くなり、一九九七年以降、絶間ない痛みと急にやってくる激痛に度々襲われて、現在二〇〇七年に至っている。
 本題に戻る。
 一二月三一日、大晦日になった。そう言われて、ああ、そうかと思っただけで、何一つ感懐らしきものは湧かない。 
 午後遅く前触れもなく伐採中止となった。モルドイへ帰るという。ここに来てから、すでに二ヵ月が過ぎようとしていた。悲惨な記憶しかないモルドイだが、帰ってみればなんとなく懐しい。真っ暗な宿舎に入ったが、ペーチカには出発時と同じように、火の気はなく話し声もなかった。奇妙な静けさに包まれていた。室内は外気とあまり差がない冷たさである。くっつくように寝ている間に割りこんで毛布をかぶった。

   第四章 抑留(二) (一九四六年一月~六月)

  一、死体を屋外に山積みにする

 元旦の夜が明けた。
 待っていたのは、宿舎内に放置されたままになっている死者の搬出であった。昨年一〇月末、伐採に出発したあと、ラーゲリではシラミが大発生し、残留五〇〇人余りには、発疹チブスが蔓延したという。手の施しようもなくて放置され、肺炎を併発して息絶えていった。