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特別寄稿(追悼文)=田中慎二さんのこと=サンパウロ市在住 中島 宏

「ブラジル日系美術史」出版記念会のときの田中慎二さん

「ブラジル日系美術史」出版記念会のときの田中慎二さん

 また一人、コロニア、いわゆるブラジル日系社会から、異彩を放った稀有な人物が忽然と消えた。田中慎二さんが亡くなられた。享年八十三歳であった。
 一九五五年に日本からボリビアに移住、その後、一九六〇年にブラジルへ再移住し、パウリスタ新聞社に入社後、コチア産業組合の機関紙「農業と共同」誌に勤務。一九七〇年代以降はフリーとなって、日系社会の出版界に深く関わることによって、コロニアの歴史と共に歩むことになった。
 コロニアにおける主な公共的な出版物(文協、援協、人文研関係など)の多くは、その装丁やイラストを田中慎二さんに負うところが大きい。おそらく、コロニアの出版物を手にしたことのある人の大半は、田中さんの手によって作成された表紙やイラストを目にしているはずである。それほど、田中さんのコロニア出版界における功績は大きなものがあった。
 ただ、この種の仕事は、どちらかというと常に地味であり、自ら表面に出るという機会もあまりなく、地味な存在であったといえよう。そこにまた、田中さんの持っておられた謙虚な姿勢が滲み出るというような雰囲気があった。言ってみればそれは、縁の下の力持ちという存在でもあった。そのような姿勢を田中さん自身が好まれていたことも事実だし、そこに田中さんの人格が如実に反映されていたとも言える。
「俺が、俺が」と目立ちたがり屋の人間が多い世の中で、田中さんのような人は誠に稀有な存在であったと言えるだろう。このような人は、逆に目立つことを嫌い、自身が行なって来た日系社会に対する貢献をも無視するようにして過小評価し、一向にそれに対しては取り合おうともしなかった。周りがそれを評価しようとしても、頑として受け付けない。
 田中さんの人物像を語ろうとする時、目立つようにして現れてくるのは、その芯の強さであり、同時にまた終生持っておられた謙虚さであり、そこにある生きる上での真摯さであろう。
 もっとも、そこにあったのは単に自分を押し殺すようにして生きるということではなく、あくまで自分の生き方を貫き通すという姿勢であった。一見、柔らかそうな外観の内には、毅然とした自分の明確な意見や意志が存在し、その線からは絶対譲らないという頑固さがあった。そこに田中さんの持っておられた、生きて行く上での姿勢と魅力というものがあったように思われる。
 時流に迎合することなく、流されることもなく、常に自分の信念を持ち続けることは、言うのは簡単だが現実には極めて難しい。そのことを田中さんは、ごく自然な形で体現しておられた。まさにそれは、自分に正直な、誠実な生き方であったと言えるだろう。それが、田中慎二さんの真骨頂でもあった。
 イラストレーターとしてだけでなく、田中さんは日系を含めたブラジルの美術界にも造詣が深く、また文筆家としても様々な著名な作品を残しておられる。その主なものとしては「移民画家 半田知雄・その生涯」、「ブラジル日系美術史」、画文集「アンデスの風」などがあり、この他にも「文協四十年史」「文協五十年史」「援協四十年史」などでも表紙、装丁、編集を担当され、さらに多くの執筆にも参加されている。
 その中でも「半田知雄・その生涯」「ブラジル日系美術史」などは、日系社会の文化史を知る上でも、欠かすことの出来ない書籍であることは間違いないであろう。
 田中さんの生涯を記録する意味での集大成が、昨年の末に出版された画文集「アンデスの風」に集約されている。そこにはイラストという、ある種、限定されたような仕事から解き放たれることによって得られる、自由に、思うままに自分を表現できるという雰囲気があり、まさに田中さん自身の飾らない人柄が思う存分描写されていると言っていい。これは、コロニアでも珍しい貴重な画文集と言えるだろう。
 そう言えば、一昨年亡くなられた宮尾進さんもそうだったが、田中慎二さんもまた、自伝的なものを著すということはついぞなかった。お二人の共通点だったとも言えるが、これはやはり双方共が、常にその視点を全体的なもの、恒久的なものに定められていたという風に言えるのではないか。器の大きさということなのであろう。
 葬儀に参列された人たちの会話の中で、多くの人たちが田中さんを「慎ちゃん、慎ちゃん」と呼んで、悲しみの中にも親しみのある和やかな雰囲気が醸し出されていたのが、非常に印象的であった。それが、田中慎二さんという人となりとを如実に表していたようにも思われる。
「いやあ、宮尾さんと言い、田中さんと言い、コロニアからいわゆる個性派と呼ぶにふさわしい人たちが次々と消えて行きますね。本当に残念だし、惜しいですね。田中さんには、まだまだこれからも書いていただきたかったのですが、それも叶わなくなってしまいました。本当に寂しい限りですよ」
 ニッケイ新聞編集長の深沢正雪さんのコメントである。
 いぶし銀のような光を放つ星が一つ消えた。が、しかし、実際にはその光自体が消えたのではなく、これからもそれは、ずっと遥かな時空を超えつつ継続されて行くことになるのであろう。それだけは確かである。
(2018・09・09記)