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勝ち負け巡るそれぞれの思い=二分したアサイ移住地=(1)=戦後25年「日本は勝った」

戦後、日本に帰国する人の送別会の様子。釣り上げた巨大魚で門出を祝った。魚の後ろに立つ面長の男性とその家族が帰国した

戦後、日本に帰国する人の送別会の様子。釣り上げた巨大魚で門出を祝った。魚の後ろに立つ面長の男性とその家族が帰国した

 4大移住地のひとつに数えられ、戦後はコーヒーと綿花の栽培で栄えた北パラナのアサイ移住地。他の日系移住地と同様に終戦直後は、ほとんどの人が日本の戦勝を信じていたという。50年代なっても、戦勝を信じる「勝ち組」と敗戦を認識していた「負け組」が別々に団体を作るなど、双方の溝が深まっていった。当時を知る人々にそのときの出来事や、勝ち負けの対立から50年以上が経った現在の思いを取材した。(山縣陸人記者)

吉田さん

吉田さん

 「日本が戦争に勝ったはずなのに、何でだろう…」――アサイで生まれ育った吉田国広(くにひろ)さん(74、二世)は7歳のときに観たアメリカ映画の印象を今でも覚えている。沖縄戦を題材にした映画で、最後は沖縄を制圧したアメリカの戦闘機が上空を飛び交うシーンで終わっていた。「子供心に不思議に思った」という。
 日本語新聞が1946年から発行を再開し始めて事実を伝え、勝ち負け抗争の収縮に大きな役割を果たした。しかし、相変わらず戦勝を報じる日本語新聞やラジオ放送があり混乱は続いていた。1950年代中頃まで勝ち組が多くいた。
 吉田さんが映画を観た50年ごろも、「戦勝を信じて日本に帰国する家族がいて、盛大な壮行会が行われた」という。その家族が日本から送ってきた手紙には、寄港した港で日本の軍艦が沈没しているのを見たことや、日本が復興の最中であることが書かれていた。両親はそれ以降、勝ち負けの話をしなくなり、吉田さんは10歳を過ぎたころには日本が負けたことを自然に理解していた。
 吉田さんが勝ち組の心情を知ったのは、2005年放映のNHKのドラマ『ハルとナツ 届かなかった手紙』がきっかけだった。昭和初期にブラジルに移民した家族の苦難を描いた作品だ。
 作中で日本の敗戦を信じない夫が、妻から「いまさら勝ち負けにこだわるなんてどうかしてるわ」と咎められる場面がある。それに対して夫は「ブラジルで日本人として生きていくために、日本の勝ち負けは何よりも大事なことなんだ」と訴えた。
 吉田さんの中でその夫と、戦後25年経っても「日本は勝った」と言い続けていた戦前移民が重なった。50年にアサイで勝ち組の団体や日本語学校を発足した人物だった。吉田さんは「敗戦を認めたくないという気持ちはどの日本人にもあった。その戦前移民は祖国を強く思い続けただけに、敗戦はいつまでたっても受け入れがたかったのだろう」と話す。晩年には「日本が勝った」と口にすることはなくなったという。
     ☆
 アサイの始まりとなった「トレス・バレス移住地」は1932年、海外移住組合連合会の代行機関・ブラジル拓殖組合(ブラ拓)によって建設された。同じくブラ拓がつくったサンパウロ州のバストス、チエテ、建設後に経営を引き継いだアリアンサ移住地とあわせて「4大移住地」と称される。
 戦後はコーヒーと棉花の世界的な高需要を受け活況を呈した。吉田さんは「高級外車を乗っている日本人の農家が結構いた」と述懐する。
 70年代になると主な作物が大豆や小麦、トウモロコシに成り代わり、機械化が進むとともに小中規模の農家が一気に減った。60年代までは日系人の8割が農村地区に住んだが、今は反対に8割が市街地に住んでいる。(つづく、山縣陸人記者)