兄の破談から10年後、結婚するはずだった相手の母親から謝罪を受けた。その一家は日本に行って敗戦を知った。アメリカに占領されている沖縄を見て、家長は泣き崩れたという。そのときすでに熊田さんの兄は別の女性と結婚していた。
熊田さんは「勝ち組とは、話にならないことを本気にした連中のことだ」と言い放つ。ただ、記者が「勝ち組の心情を理解できますか」と尋ねると、意外にも「理解できる」と答えた。
熊田さんは「あのときは確かな情報を得た人が少なかった」と言う。戦後すぐに敗戦を認識していたのは清水さんと熊田さんのように、縁故のある人から話を聞いたり手紙受け取ったりしたごく少数だった。
サンパウロでは日系社会の指導者によって、認識運動が活発に展開されたが、アサイは違った。認識運動とは日本の戦勝を信じる人々に対して、敗戦を認識させる活動のことだ。
熊田さんは「アサイのような田舎はとりわけ情報が少なかった。リーダーまでもが勝ち組だった。正しい認識がもっと早く広がっていれば、兄の破談も無かったかもしれない」と静かに話した。
サンパウロに戻った記者は、アサイ出身の池田マリオさん(73、三世)に話を聞いた。連邦警察の署長を務め、退職してからは戦後の日系社会について調査を続けている人物だ。
池田さんは「元臣道連盟員が刑務所から出所した後、アサイに住んでいた」と話す。臣道連盟は終戦時にサンパウロで発足し、勝ち組の中心的組織と目された。そのせいで46年、負け組襲撃事件と無関係の多くの組織幹部らが拘束された。
同組織の本部理事でアサイ在住だった谷田才次郎氏は、ドゥトラ大統領宛の請願書を書いた。「日本人は家族のために働き、ブラジルのために子弟を教育する」「警察は事実の調査もせずに多数の人々を拘引している」などと、臣道連盟員の潔白を訴えた。
谷田氏はこの手紙を届けるためにリオに降り立ったところを逮捕された。その後、他の日本人と同様にアンシエッタ島の刑務所に送られた。
2年ほど経ってから釈放され、アサイに戻った。島で共に過ごした数人の臣道連盟員を誘い、戦中から営んでいた製材業を再開した。
谷田氏はアサイにおける中心人物だった。前述の吉田国広(くにひろ)さんが「70年代になっても『日本は勝った』と言い続けていた戦前移民がいた」と話していたのが、この谷田氏だ。
50年に勝ち組の団体「アサイ日本人会」を立ち上げ、初代会長を務めた。また、同年に「公民学園」という日本語学校を開校している。公民学園では日本語のほかに、修身や体育などを教えた。
谷田氏とその同士たちは日本への帰国を望んでいたが、警察から身分証明書を取り上げられていたため出国の許可が下りなかった。58年に連名で最高裁長官に直訴状を送り、その後、3代の大統領にも送ったが状況は変わらなかった。(つづく、山縣陸人記者)
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