池田さんから、谷田才次郎氏が開校した日本語学校「公民学園」に通っていた土屋パウロさん(70、三世)を紹介してもらった。現在、パラナ州ロンドリーナ市に住んで公証翻訳人をしているという。電話で取材を申し込むと快く承諾したれた。
土屋さんの両親は戦前、パラナ州ウライ市で日本語学校を経営していた。太平洋戦争が勃発しブラジル政府に日本語教育を禁止されると学校を閉め、父が大工となって生計を立てた。
戦争が終わり土屋さんが生まれた後、一家は同州アラポンガス市に移った。市内に勝ち組と負け組みの2つの日本語学校があり、土屋さんは勝ち組の学校に5歳から11歳までに通った。
子供たちは学校の違いに関係なく一緒に遊んでいたという。「あのころは日本が勝ったとか負けたとかに全く関心が無かった。大人は大真面目でも、子供にとってはそんなものだったんです」と話す。
8歳になるとブラジルの公立学校にも通いだした。大戦中に父親が欧州派遣軍に従軍していた同級生がいて、「日本は負けたんだ」と土屋さんをからかったり殴ったりしていじめた。家に帰った土屋さんが父親に「なんで日本人だからってこんな目にあわなくてはいけないのか」と文句をぶつけると、父親は「本を読んで歴史を勉強しなさい」と答えた。
図書館で第2次世界大戦についての本を読んだ土屋さんは、日本が戦争に突入してから敗戦するまでの経緯を知った。「父は日本の敗戦を自分の口からどう伝えればよいのかわからなかったのだろう」と述懐する。
62年にアサイに移り住み、母親が公民学園の日本語教師になり、土屋さんも数年間通った。学園では教育勅語を朗読したり天長節や紀元節を祝ったり、戦前の教育を続けていた。
記者が「教師や生徒の親たちは敗戦を知っていたのでしょうか」と尋ねると、土屋さんは「そのころには知っていたと思いますよ」と答えた。
「誰もあえて『負けた』と口に出すことはなかった。戦争に負けても天皇や祖国を敬う気持ちは変らない。ずっと続けてきた教育や習慣を変える必要も無かった」と話した。公民学園は60年末になると生徒と教師が不足し閉校し、谷田氏はその数年後に亡くなった。
勝ち組、特に臣道連盟はひとくくりに「狂信的な集団」とされてきたが、近年になって書籍やドキュメンタリー映画などによってその歴史が見直された。祖国を心の拠り所にするがゆえに、敗戦を信じることができなかった人々の心境が、現代においてようやく理解されつつある。(終わり、山縣陸人記者)