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池坊橘支部=母から子に支部長を継承=帰伯二世、生花普及に尽くした半生

凉孝さんに支部長任命証が授与された

凉孝さんに支部長任命証が授与された

 「幼き頃に生花の美しさに感動し、今日まで一途に池坊の道を歩んできた。それも多くの皆様の弛まぬお力添えのおかげ。ただただ感謝で胸が一杯です」。先月14日、文協貴賓室で開催された華道家元ラテンアメリカ橘支部主催「第34回記念花展」で、創立以来支部長を務めてきた田中凉華さん(89、二世)は辞意を述べ、息子・凉孝(55、三世)さんを後任に任命した。
 凉華さんはマリリア近郊に生まれ、勉学のため13歳で単身渡日した。当時、帰国できる移住者はごくまれという時代。当地生まれで日本で戦火を過ごした、今では数少ない帰伯二世の一人だ。
 凉華さんによれば「父は日語の勉強に大変厳しい人だった。ある夜、目が覚めて、『どうしても日本で勉強したい』と泣きながら父に懇願した。すると父はすぐに日本に発つ用立てをしてくれたんです」と述懐する。
 だが、渡日した41年の暮れに真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発。家族とも離れ離れになってしまった。そんな時分、少女の心を癒したのが、生花との出会いだった。
 決して華やかとは言えない質素な生花だったが、その凛とした美しさに圧倒された。凉華さんは「苦労はしたけど、今になれば本当によかったと父には感謝している」と半生を振返る。
 戦後、55年頃に帰伯した凉華さんは、マリリアの自宅で母親やその友人らと共に生花を学び、華道にのめり込んでいった。「日本の美しい文化である生花を一人でも多くの人に伝えたい」。その気持ちはますます強くなっていた。
 だが、帰伯した当時、ポ語を完全に忘れていたという。「戦時中は、横文字が書かれた書物を持っているだけでも憲兵に引っ張っていかれた。だから、勉強もできなかった」と苦笑する。
 「帰伯してからは夜学に通いつめて勉強した。でも、寝ても覚めても生花のことばかり。辞書を手放すことなく、ポ語でどのように教えたらよいのかを常に考えていました」と往時を語る。
 その後、出聖した後、凉華さんは池坊南米支部で生花を続けた。だが、同支部は日系人志向が強く、ブラジル人には敷居が高かった。「生花を一人でも多くの人に伝えたい」という凉華さんの考えとは、方向性の違う組織だった。「この立派な文化を日本人だけに留めていてはもったいない」。そこで、84年に橘支部を創設した。
 「それからは生花を普及させるため、なるべく多くの人の目につくよう、ありとあらゆる場所で花展を行ってきました」と振返り、「いつまでも元気で皆さんと生花を楽しみたいという気持ちは尽きませんが、年にはかないませんね」と充足した表情を浮かべた。
 支部長職を受けついた凉孝さんは「これまで34年間、橘支部から多くの生徒が育ち、多くの花展を開催してきた。それも、母が中心にいたからこそ」と語り、「支部長を引継ぐ重責を感じる。これから困難な道が始まるが、皆様のご支援を頂きながら活動を続けて行きたい」と決意を表した。
 なお、同展は15、16両日に催され、展示された約60点の生花が来場客を魅了した。


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 橘支部は、現在文協でも講座を実施しており、ブラジル人生徒も多いという。田中支部長によれば「一般的にブラジル人は集中力がないと言われるけど、伊系ブラジル人なんかは共通するところがある」と話し、現に、副支部長にはアンドレア・サファジ、アンナ・モンテガッゾツォの両氏が起用されている。田中支部長は「生花とは命を生けること。どのように生けたら、どのように花が貴方に微笑んでくれるのか。花と対話し、その心を知りなさいと説いている」と言い、「枝の折り方一つとっても、向きや角度によってその表情は異なるもの。同じ材料を使っても、個性を反映したまるっきり違う作品になる」のだとか。華道の道をまっしぐらに歩んできただけに、それを通じて人を見る目も研ぎ澄まされているのかも。