そのおっとりした感じが、今も残っている。
「甲種か乙種か」
と、訊ねると
「甲種だった。海拉尓の経理学校へ入学することになった。谷口はどちらだ」
現金なもので、同年で同年兵だと分かると、先輩後輩の気持が減少したらしく、私を呼ぶのにさん付けを取って、谷口と呼び捨てになった。なんだか可笑しくなって、
「経理学校か。後方勤務で長生きできるぞ。俺は消耗品の下級将校の口だ。頑張ろうぜ」
彼は即日海拉尓へ出発するといい、その場で別れた。海拉尓の守備隊は、八月九日に国境を突破して進入したソ連軍を迎撃し、四要塞にこもって激戦の末、全滅したらしいという噂を聞いた。
山下君の消息は、その後不明である。
一四、邂逅(二)
ノーバヤ(チタ市東側)で、同町同会社の先輩高野さんと会ったことは第四章一三項で記した。次に記すのは北鮮に移動してからのことだが、初期か中頃か判然としない。北鮮で会ったのは間違いないのだが、場所もどの辺りだったのかすらも、はっきりしない。
出遭った二人の友人は、今となっては居所も生存も不明で、確かめようもない。一〇〇万人を越す日本軍の捕虜たちは、ドイツ、イタリア、その他の国々の捕虜と同様にシベリア地域だけでなく、ウラル山脈を越えてロシア中のラーゲリに放りこまれた。そうして運よく生き延びているうちに、私は思いもしない人生の機微に触れ、友人に出遭う偶然に遭遇した。
北鮮における一日、私たちは最近伐採したばかりの、新しい切り株が、林立する広い場所にいた。日本兵が沢山集まっていた。切り株の間を歩き回っていると、満州電電に同期入社の多賀史郎とバッタリ出遭った。彼とは本社人事課で机を並べていた間柄である。真新しい冬物の軍服を着ており、軍曹の襟章をつけていた。一五人の部下を率いていた。
彼が入隊した一九四四年一〇月には、私は病気で生と死の間をさ迷っていた。私より半年早く入隊した彼は、石頭の予備士官学校に在学中終戦となり、同時に軍曹に仮進級した。入隊の半年前、彼は日本脳炎にかかり、運良く死ななかった。もともと無口な男であったが、回復後は輪をかけたように、無口がひどくなり、表情も乏しくなっていた。
そのままの感じで、切り株に腰掛けている多賀と正面から顔が会った。懐かしくて、生きていたか、多賀君、と声をかけたが、彼の反応は鈍い。ニコリともしなかった。日本脳炎の後遺症も加わって、無表情だから悠然とした感じである。部下の年嵩の男が何事か彼に言うと、うん、と答えただけである。話しかけたが、話題は前に進まない。なんとなく気まずい思いで彼から離れた。いまだに内務班を維持している態度がおかしかった。
復員後、岡山在の彼と三度便りを交換したが、あの時の取り付く島もないような文面ではなかった。
多賀と出遭った数日後、
「おい、谷口じゃないか」
と、後から声をかけてきた兵がいた。振りむくと、中学時代の同級生で剣道部で汗を流し合った池本孝司だった。少しも変わらない浅黒い顔、喋り方、物腰である。
「よく生きていたな」
と、いうと、
「うん。俺、白高粱を持っているんだ。食べさせてやるぞ」