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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(61)

 あっけにとられている私を引張って、大きな切り株の陰に行く。大き目の空き缶に高粱をざっと入れ、水筒から水を注いだ。石を積んだカマドに枯れ枝を重ね、マッチで火をつけて、缶を載せた。
 マッチなど、ラーゲリ生活のなかでは宝石同様である。余程のことがないと持てなかった。
「貴重品を持っているな」
 と、いうと
「何でもあるぞ」
 と、威張った。
 炊きあがるまで話し合った。驚いたのは彼の所属している隊は、いまだに自前の食糧を確保していることだった。彼の隊は食糧、被服、日用品など充分に確保したまま捕虜になったから、今でも数日毎に、本部で食糧をもらって、自炊しているんだという。本当には出来かねる話であるが、現に友人がそうしているのだから事実に違いない。それにしても火事場泥棒そこのけの、ソ連軍の目をどうやって逃れたのだろうか。彼の所属部隊の隊長は、余程遠謀深慮に勝れ、部下思いの人なのであろう。実に素晴らしい隊長ではないかと感嘆した。
 炊きあがった白高粱に塩をまぶして食った。友情がこもって最高の美味だった。私が経験したラーゲリ生活とは天と地の差がある捕虜生活を送っている隊のあることを知った。
 池本は新京の部隊に入隊した。終戦になる前、関東軍司令部と共に通化に後退し、塹壕を掘っているうちに作戦変更とかで新京に戻ったという。新京で終戦を迎え、以後あのポセットの辺りをウロウロし、そして北鮮へ来たんだ、と話してくれた。
 彼は私たちより一足早く元山に南下し、十二月二八日の第一船で復員した。私がブラジルに来るまで交際は続いた。
 終戦後、一〇〇萬人余(通説六十萬人はソ連側発表)が、ソ連中にばら撒かれた。そのなかで三人もの友人と出遭ったことは、奇跡に近いことではないかと思っている。

  一五、三合里より移動

 三合里駅には無蓋車が待っていた。列車は清津方面へ走り出した。いつのまにか清津を通り過ぎ南下していた。晴天だが、風は無闇に冷たい。後列の車輌の班長格は、中年、髭面の大男である。その車輌から合唱が聞こえてきた。髭面の班長が音頭をとっている。復員後、ラジオの放送でこの歌を聞き、すぐにあの時の歌だと思い出した。
「ハバロフスク ラララ ハバロフスク」で始まる歌詞もメロディも覚えやすく、そして哀調を帯びながら軽快であった。(異国の丘)はおなじ抑留生活を歌っていながら重く暗い。捕虜を乗せた無蓋車から流れてくるハバロフスク小唄に、私たちは激しい郷愁に誘われて、涙ぐんで歌声に聞き惚れた。
 午後天候が急変し、小雨模様になる。日本海から吹きつける寒風に震えているうちに、列車は中規模の駅へ停車した。そこで有蓋車に乗り換えて一泊する。日本が近くになってくる。そう思うだけで、郷愁に胸が強く締め付けられた。
 遥か後年、何気なく聞いていたバイオリンの音色が、激しい郷愁を呼び起こした。まるで抑留中絶えず胸中から離れることのなかった郷愁の思いにそっくり当てはまった。テレビが普及してから、バイオリンの奏者が同じ曲を弾いていて、再び胸を締め付けるような郷愁の思いにひたった。『望郷のバラード』という題であることを、はじめて知ったのは二〇〇七年である。早速日本の身内からDVDを送ってもらい、今も胸を締め付けてくる曲を聴きながら、ペンを走らせている。