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県連故郷巡り=アララクアラ、ノロエステ巡訪=(3)=州内屈指のぶどう生産地=発展の裏に日系人の功績あり

一面に広がる葡萄畑

一面に広がる葡萄畑

 苺農園を後にした一行は、ジャーレス日伯文化協会に戻って昼食。午後は市内の蘭園、チネリ家の葡萄園を訪れた。同園は7ヘクタールに5万本、4種の葡萄が栽培されている。参加者は見渡す限りの広大な畑で、葡萄狩りを楽しんだ。
 ここは果樹栽培が盛んで、州内屈指の葡萄生産地だ。昨年の葡萄生産量は約1万7千トン。毎年8月末から9月頭にかけて開催される「葡萄と蜂蜜市」は今年で13回を数え、地域の農業振興に一役買っているという。
 現在、農業に従事する日系人は殆んどいないが、その果樹栽培の発展にも日系人の大きな功績があった。ジョルナル・デ・ジャーレス紙14年6月2日付で、以下のように伝えている。
 《日本人入植は1940年代に宮田兄弟が土地を購入し入植したのが始まり。当時の村は大きな珈琲畑が広がり、牧草地帯には牛数頭しかいなかった。(中略)だが、一万年の文明を持つ日本人が突如として、極小トマトをミカン大に変えたのである》。
 続けて《温帯気候の果実種が豊富になったのは、日本人が苗を植え、水を与え、肥料を与え、剪定し、家族の一部のごとく扱ったからである。それに加え、それまで当地では実践されていなかった熱帯果実の栽培にまで乗り出したのだ》と紹介している。
 ゴイアス州アナポリス在住の畠山タミオさん(70、二世)は、子供のころにジャーレスに住んでいた。「56年から10年間住んでいたけど、当時は日系人が3割くらいはいたんじゃないか」と話す。日系人は少なくなったが、市政開始の早い時期から入植し、その発展の一時代を築いたと言えそうだ。
 葡萄園を後にした一行は、再びジャーレス日伯文化協会の会館に向かった。夕食は同会婦人部が約20人掛りで準備にあたり、炊き込みご飯や煮物、揚げ物、漬物など豪勢な食事が準備された。

地元太鼓チーム「轟太鼓」が熱演

地元太鼓チーム「轟太鼓」が熱演

 早朝から慣れない暑さで疲れきっていた参加者も、真心込もった手作りの日本食に舌鼓し、みるみると気力を回復させた。宴の終焉は、昨年の全伯太鼓大会で3位入賞した同会の太鼓グループ「轟太鼓」の熱気溢れる演奏が繰り広げられ、会場は万雷の拍手に。
 松川美智子エリザベート婦人部長(71、二世)は「私の孫もグループに入って太鼓を叩いているんですよ」と目を細め、「この一週間ずっと雨が降っていたが、今日は快晴になった。こうやってたくさんの人が訪れてくれるのは嬉しいものね」と思わず笑みをこぼしていた。
 最後は、同地出身で参加者の一人である畠山富士夫さんが(75、二世)がマイクを握り、「ここは私が60年前に住み、働いた故郷。此処に再び戻ってくることができて本当によかった」と挨拶。郷愁漂うハーモニカの演奏に合わせて唱歌「ふるさと」を全員合唱し、一行は名残惜しそうにサンタフェ・ド・スールへと旅立った。(続く、大澤航平記者)