北原吟子さんに続き、弟・春正さん(68、熊本県)に話を聞いた。一家はスザノで2カ月ほど過ごした後に、イタペセリーカに転住。そこでは野菜作りを営んでいた。
春正さんは「当時はトラクターもなく、鍬で畑を耕した。トマトを袋詰めにしては町の市場まで持っていった。言葉が何も分からず、欲しいものを指差して、ガイジンと物々交換したんです。言葉が分からなくても、何とか通じるものなんですよね」と豪快に笑い飛ばした。
その後、71年にレジストロに移転、81年からバナナ園を始めた。当時は、レジストロが紅茶の都として知られていた紅茶産業の全盛期。そんななかいち早くバナナに目をつけ、60アルケールの土地でバナナ栽培を始めた。
春正さんは「バナナは消毒する必要がなく、手頃に出来る」と利点を挙げる一方、「でもいいことばかりではない。いつだったか、暴風雨で80%以上がやられたこともある。この間のトラック業者のストでも2週間近く出荷が止まり、トラック8台分が被害にあったよ」という。
通常、バナナは緑色をした未熟な状態で収穫され、追熟加工により均一に成熟し、黄色い状態で市中に販売される。ところが、収穫時期を逃したり、その必要な加工ができないと、その間に不均一に熟し、商品価値を失ってしまう。
春正さんは「僕たちは移住してきて本当に良かったと思っている」と前置きしたうえで、「でもこの国に対して、我々が労働者を使う側ではなく、これが反対であればよかったのではないかという思いもある。ブラジルは災害もなく資源がこれだけ豊富にあるのに貧乏なのは、国民に責任がある。やっぱり教育が一番大事。だからこそ日本人がこの国で出来ることがたくさんあるはず。私にとっての故郷は、いつしかすっかりブラジルになってしまいました」と笑みを浮かべた。
苦労の末に今日を迎え、移民を受入れてくれたブラジルに対する感謝の念を持つ一方で、今や愛する故郷となったがゆえに、混迷極まるブラジルの現状に複雑な感情を抱いているようだった。(続く、大澤航平記者)
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