<その1>
選挙により、国民に合った政治家が選出されると言われ、国の政治が良くなるのも悪くなるのも、元々は国民の責任であると言われ、私達日系人はよく親達から「清き一票を」とよく聞かれた。
しかし、私達の見解では本当にだれがブラジル国の発展と国民の為になってくれるのか解らないで、最終的には知人の要望や心に無い夢のような目的を公約し、当選した後は自分の為にのみ行動をとる人に投票してしまう事が多くみられる。
または、立候補者がどんな人物であろうと、自分に少しでも便宜を図ってくれた人に投票するのが一般的である。私はそのようにならないようにと思いながら、家内と共に6人の候補者の番号を書いた紙きれを持って、10月7日7時50分に出かけ、選挙に望みました。そこでこの重要な選挙に付いてコメントさせていただきます。
▼選挙の数字
《1》ブラジル国の26州と首都が構成されている5570の郡(MUNICIPIO)に45万4493の電子投票機(URNAS ELETRONICAS)が設置された。
《2》240万人に近い管理人員が、選挙法に基づき訓練を受け、選挙日(日曜日)に動員された。その内130万人が無給ボランテアであった。
《3》★ブラジル国の有権者数「1億4730万人」
★うち20・3%(2868万人)が欠席
★投票を行った有権者は11862万人
欠席率の高い理由は70歳以上は投票義務が無く、老齢者の多い事やブラジルの政治の悪さにあきらめている人も少なくないようでした。
《4》「候補者数」と「議席数」
(A)大統領候補13人に対し、1議席
(B)上院議員(各州1か2)候補者358人に対し、54議席
(C)下院議員(人口比率によって州ごとに異なる)候補者8591人に対し、513議席
(D)州議員(各州の人口による)候補者1万9055人に対し、1059議席
(E)州知事の候補者199人に対し、当選者は27人のみ。
【候補者合計】2万8216人
【A】大統領選
10月28日の大統領決戦投票に望む上位二人の候補者フェルナンド・ハダジとジャイール・ボルソナロの経歴と施政方針が詳しくインターネットで広報されております。
10月13日の世論調査によるとハダジ氏が東北伯地方で有利、他の4地方でボルソナロ氏が有利となっており、全体の42%がハダジ氏、58%がボルソナロ氏を支持していると公表されている。両候補者の政治論争はテレビ、インターネットを通じて続き政治評論家の解説も多く見られ楽しみである。
【B】上院議員選
このたびの上院議員選挙では、合計81名の総議席の3/2(54議席)が入れ替えとなり、358人の立候補がった。現職32人が再選に名乗りを上げたが、8人しか通らなかった。
残りは新人候補に奪われてしまった。上院議員議長、副議長を始め多くの長老政治家、大臣経験者、州知事を務めた有力者が落選し、85%が新しくなった。
【C】下院議員選
下院議員の513議席を8591人の立候補者達が争い、再選に望んだ多くの現職議員が落選し、243人の新人に議席を奪われた。およそ半分近くが新人に替わった。
今回の選挙の特徴は政治党派(PARTIDO POLITICO)が25から30に増えた事。大きな党派と称されていたPT党、PSDB党、MDB党の議員が大幅に減少し、小さな党と言われていたPSL党、PDT党、REDE党、PSOL党、NOVO党などが議員数を増やした。
特にPSL党は前回の当選議員が1人だったのに、今回は52人を選出し、全党の第2位となった。ボルソナロ人気の影響とされている。また全体的に年齢が若くなり、軍人、女性議員が増加した。
▼選挙資金
ブラジルの新選挙規定により、どの政治党や政治家も、選挙への寄付を企業から貰えなくなったために、政府は巨額な選挙資金基金17億万レアイスを許可、設定した。その資金は党派の大きさによって配付された。上下院議員の内44・7%がこの資金により助成をうけたにもかかわらす、11・62%のみが当選した。また、100万レアイス以上の助成金を受けた議員359人の立候補者の内175人のみが当選した。
選挙助成金を使わなかった候補者の当選率は非常に少なく、わずか2%であった。例外として政治資金助成金を全然うけなかったPSL党及びREDE党は、ボウロナロ氏の政治力によって見事多数の議席を獲得した。
今回の統一選挙で感じられた事は、ブラジルの政治、多くの政治家達の不正に国民はあきれ果て、新しい思想を持った政治家に変えなければならない事に過半数以上の国民が目覚め、その結果が表れたものだと思います。
<その2>ボルソナロとはどんな人物か?=10月22日記
まず、彼の略歴を説明したい。
ジャイル、ボルソナロ氏は1955年3月21日にグリセリオ市(GLICERIO市は人口わずか4801人)の小さな町で、兄弟6人の三男として生まれた。
この町はサンパウロ州ノロエステ地方のプロミソン市とビリグイ市の間にある。しかし、父親によってカンピーナス市に戸籍登録がなされた。
父はドイツ系で母はイタリア系。彼が幼児のころに家族と共に転々と引っ越しが続き、最初にリベイラ市に移転、1964年にジュンジャイー市、1965年にセッチ・バラーラス市に、1966年にエルドラド市を転々とし、1973年に兵士訓練学校に志願。一年後に陸軍養成専門学校(AMAN=AGULHAS NEGRAS)入学、1977年に卒業した。
卒業直後、リオ第8軍隊の兵士として入団し、落下傘部隊で訓練を受けた。1979年から1981年に南マット・グロッソ州で第9師団に入団。1982年に兵士体育専門学校を卒業した。
1986年にはリオの第8軍隊の落下傘部隊のカピトン(大尉)に任命された、
しかしその年に、彼は「兵士の給与が安すぎる」という一文をVEJA誌に公表し、軍隊の秩序に反するものと軍事裁判所より裁きを受け15日間拘束された。
しかし軍人仲間から150通もの賛同電報を受け取った。その後も軍隊に反する行為を実行したと報道され、フィゲイレード大統領、ニュトンクルス大将当時、1988年にボルソナロ氏は予備役(CAPITAO DE RESERVA)にされてしまった。
犯罪容疑者と見なされていたが、結局は2年後に軍事裁判所によって無罪との判決を得た。
そんな1988年より政治生活が始まった。1988年、政治運動に加わり、リオ市の市会議員に立候補して当選し、政治家としての活動を開始した。
1990年の選挙で下院議員に立候補し、リオ州で一番多い46万4千票を獲得し、当選を果たした。
1991年より下院議員として活躍を始めて7回続けて当選し、最初にPDC党に加入、93年~95年にPPR党、95年~2003年にPPB党、2003年~2005年にPTB党、2005年にPFL党、2005年~2016年にPP党に、2016年~2017年にPSC党、2018年から現在までPSL党に加入した。
27年間の下議生活をへて、大統領選挙に望む事を決意した。
PSL党を土台として立候補のスローガンは「BRASIL ACIMA DE TUDO、DEUS ACIMA DE TODOS」。意味は「すべてをブラジルの為に、すべての人々が神を崇めること」と言う表現を採用する事にした。
2017年にINSTITUTO FBS PESQUISA (FBS)調査局により、ボルソナロ氏が社会的に最も影響力を与えた下院議員であったと公表された。
▼ボルソナロ下院議員の意志と目的
私が数週間前にボ氏が記者会見するのを見たときに、記者は「貴方はただの下院議員として長年勤めてきた。だが、大臣になった経験が無いのにどうして大統領候補に出馬するのですか」と問われた。
ボ氏は次のように答えた。
◎
私は他の下院議員以上にプロの政治家として、自分の金儲けでは無く、ブラジルが良くなるためには何をしたら良いのか、しなければならないのかを、真面目に熱意をもって国民の代表として働いて来ました。そして多数の専門委員会に参加し、数年の間に172の法的プロジェット、5の憲法修正法(PEC)、委員会に対して470の追加プロジェットを提出した。だが可決されたのはほんの僅かで、同席議員から、貴方の考えは右翼派すぎて可決できないと言われました。そこで自分の真面目な考えを実行するにはどうしたらよいのか考えはじめた。
『長』にならなければならない、と思うようになり、下院議員議長に3回立候補しましたが、僅かの議員から支持されたのみでした。
そこで私は戦略を変えて、自分が真面目にブラジルを良くしたい考えや、ブラジルの政治改革、新しい考えの必要性、国民の考えを変える必要性を、確信を持って下院議員一人一人に説得を続け、百人以上の下院議員の仲間、同志に賛同が得られた。
労働党の政治のやり方に初めから常に反対し続けてきた。また、下院議員の役割として、ブラジル中をできるだけ歩き(自分の費用で東北伯、北伯(ロライマ)、中部、東部、南方(リオ・グランデ・ドスールを歩き)、地方の問題点に理解を深めて、ブラジル全体の問題を把握した上、それらの問題を解決するために大統領に立候補した。下院議員を27年務めたうちに育った願望である。
◎
私は上記のインタビューを拝見してから、ボルソナロ下院議員の真面目さ、長年望んでこられた意志に賛同するようになった。ブラジル中の国民、特にインターネットを通して情報を得ている多くの国民も賛同をしているものと思われます。