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《ブラジル》NHKのど自慢の決勝大会で優勝した平田ジョエが、日本でプロデビューしなかったワケ

平リカルドさんの『Rosa da Liberdade』刊行記念会で(左から武本さん、平さん、平田さんら)

平リカルドさんの『Rosa da Liberdade』刊行記念会で(左から武本さん、平さん、平田さんら)

 「日本で8万人の中からボクが1位に選ばれたんだ。生涯であれほどうれしいことはなかった。細川たかしから『プロにならないのか?』って聞かれたんだよ」――平田ジョエさん(51、三世)はまるで昨日のことのように1994年3月のことを思い出す。

平リカルドさん

平リカルドさん

 クルツゥーラTV局の報道局長、平リカルドさんの著書『Rosa da Liberdade』の刊行記念会に向かう際、彼の車に同乗させてもらい、そんな印象的な一言を聞いた。
 コロニア歌手は何十人といるが、彼のように「歌手」を職業にして生活している人はごく少ない。その出発点が、冒頭の「NHKのど自慢グランドチャンピオン」になったことだ。
 1993年度の1年間、毎週日本各地で選抜されたチャンピオンだけが出場できる決勝大会で、愛知県田原市代表として平田さんは「シャイニング・オン君が悲しい」を歌って見事優勝を飾った。日本でのデカセギ生活6年間の最後を飾る大金星だった。
 コラム子は「どうして日本でプロデビューしなかったの?」と以前からの疑問をぶつけると、「決勝大会が終わった後、楽屋に芸能プロダクションの人がたくさんきて、『プロになりたかったらここに連絡して』といって、僕の手に名刺を置いていった」と平田さんは思い出す。
「でも、妻が決勝大会の4カ月前にブラジルに帰っていて、2カ月前に赤ちゃんを生んでいた。彼女はボクが歌い続けることを望んでいなかった。彼女との約束で、ブラジルに帰らなくてはならなかったんだ」と語った。
 まさに「後ろ髪を引かれる心境」とは、このことだっただろう。
 平田さんはもう一つの理由として、「僕は子供のころからNHK紅白歌合戦をイマージェンス・ド・ジャポン(IMJ)で見ていた。だから、8歳から歌い始めたけど、いつもNHK紅白が夢の舞台だった。のど自慢の決勝大会の会場に着いた時、なんか見覚えがあったんで、ソデの人に聞いた。『もしかしてここはNHK紅白歌合戦の会場にも使われているんですか』と。そしたら『そうですよ』とのこと。その時、『同じ場所で歌えるだけで、もう夢がかなった』と思ったんだ」との気持ちも説明した。
 日本で有名歌手になれたかどうかは別にして、プロデビューするところまでは確実に行けた。そこまで行けるだけでも、あまたのコロニア歌手からすれば夢のようなことだ。彼がもらった1メートル40センチもある優勝トロフィは、今は移民史料館に陳列されている。まさに歴史に刻まれた訳だ。
 その決勝大会はIMJの中で、ブラジルでも生中継されていた。それを司会していたのが、三宅ローザだった。平田さんは「ローザは当時カリスマだった。だってコロニアを越えて、ブラジル人にも人気があった。そんな歌手は他にいなかった」と振りかえる。

平さんと坂尾さん

平さんと坂尾さん

 会場で、坂尾英矩さんに会ったので、ローザの代表曲となったヴァリグ航空のCMソング『浦島太郎』の裏話を聞いた。
 コラム子は「なぜ浦島太郎を選んだんですか?」と尋ねると、「あれはね、奥原マリオと相談している時に、浮かんだアイデアだ。移民の心情を歌い込むには、これしかないって。だって、みんな20年、30年ぶりに日本へ行くんだ。しかも飛行機で。そして、すっかり故郷は変わっている。浦島太郎の心境そのものだろう」と畳み込む。それを聞きながら、「なるほど、まさにそうだ」と感銘を受けた。
 さらに坂尾さんは「作曲したアルキメデス・メシナは、当時すでに有名な音楽家だった。彼は、移民が持つ哀愁の味を消さないで、明るいCMに仕上げた。奴はスゴイやつだった」と付け加えた。
 会場には、ブラジル日系文学会の武本憲二会長の姿も。「IMJを家族そろってみるのが、武本家の団らん風景だった。ローザはとても上品に歌う。本当のアイドルでしたよ」としみじみ語った。

ジョルナル・ド・クルツーラの取材を受ける平田さん

ジョルナル・ド・クルツーラの取材を受ける平田さん

 平さんの元には、看板報道番組ジョルナル・ダ・クルツーラのコメンテイターをする有名人たちがひっきりなしに現れ、人脈の広さを伺わせた。
 平さんに「どうしてローザの本を書こうと思ったのか」と尋ねると、「息子の奥原マリオ純に出会ったことが大きい。僕も子供の頃にIMJを見ていたからね。ローザの歌とか、日本文化紹介の番組をよく見ていた」と懐かしがり、「ローザは日系社会の壁を軽々と乗り越えて、ブラジル社会で活躍した。その姿を描きたかった」と説明した。
 まさに平さんもブラジル報道界の重鎮にとなった人物。ローザは過去の人になってしまったが、「今の人」である平さんの凄さを痛感し、「平田ジョエにもそうなってほしい」と心から願った。(深)