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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(8)

 それまで、人間は老齢や転落や殺人などの事故のために死ぬのだとばかり思っていた。それも耳にしたことがあるだけだ。はじめて脳膜炎の患者がでたとき、みんなは船の高いところから転落し、頭をひどく打ち、打ち所が悪くて死んでしまったと考えた。そこではじめて脳膜炎だということが知らされた。
 最初の脳膜炎による犠牲者がでたとき、乗客の動揺は激しかった。正輝同様、なぜ、そんなことが起きたのか理解できず、みんなは事件の実態を知りたがった。そして、海洋葬をみるためにデッキに向けて走った。船は一時停止した。サイレンがなり、そのあと、乗組員か仏教にくわしい乗客が念仏を唱え、みんなの見守るなかを遺体は白い布に包まれ海に投げられた。遺体はまたたくまに沈み、あっというまに航海は再開された。二番目の船客が死んだときも、前と同じような光景があり、みんなは悲しみのうちに死者を見送った。しかし、死者の数が増えるにしたがい、心の痛み、同情心、死人の家族をいたわる気持ちや、子どもたちが葬儀に寄せる好奇心は失われていった。
 5人目か、6人目のとき、「もうたくさんだ」と正輝思った。そして、死人についての情報はいつしか消えたていった。それほど騒ぐことはないと思われたのだ。わずかのあいだに神戸から出発した人間のうち53人が死亡してしまった。いまは乗客の間には死の恐怖しかなかった。いつ自分の番がやってくるのかと戦々恐々とした。移民の歴史のなかでこの伝染病ほど一大惨事として伝えられている事件はない。
 それから何日かして若狭丸はシンガポールに入港した。現地の港湾当局は機敏に厳格な処置をとった。生き残った人々を検診し、船中を消毒し、停泊期間が設けられた。その間、もし、正輝が下船をゆるされ上陸できたなら、大いに楽しんだことだろう。まったく想定外のあまり耳にもしたことのない未知の世界を知ることができたのだから。
 しかし、若狭丸とその乗客は完全に隔離状態におかれていた。保健衛生の担当官だけが乗船を許され、船客はひとりとして下船することが許されなかったのだ。それは少年正輝にとって永遠の時間に感じられた。船には目的地に向って進む許可も、後にした港に引き返す許可も与えられなかったのだ。なんらかの決定が下されるまで、船はただそこに留まっていた。正輝も同じような状態で、なすべきことがまったくなかった。船内の自分に与えられた空間からでられず、友だちを得る機会もまったくない。
 つまり、行けるところなどなかったのだ。彼の計算ではそんな状態が一ヵ月以上つづいたように感じたが、シンガポール港の船舶の入出港記録によると、ちょうど24日間と記されている。ふつう、航海期間は50日余とされているが、この航海ではそれがずっと伸びてしまったことになる。

 朝早くようやくシンガポールを後にしたときは、やれやれと、みんなお祭り気分だった。朝の光りが寝起きしている船底にさしこんだとき、正輝はなにか腑におちなかった。朝日は左側から射してくる。ところが、これまでは船の長さにそって、船体の後ろから前つまり、船尾から船先に向けて陽が射していた。しかし、いまは左舷から右舷、つまり、左から右に船を横切っている。どうして船はこんなに進行方向を変えてしまったのだろう。正輝は航路の知識も情報をもち合わせておらず、寄港地を示す地図もなかった。たとえそれらがあったとしても、疑問を解くことはできなかっただろうが。