日本人はみんな背が低く、土地の者になじみのない妙な服を着ている。借りた着物のように妙に感じるのは移民のほうも同様で、彼らが洋服など着慣れているはずもなかった。
地元の人間にしてみれば、日本人はまったく理解できない言葉を話し、なかにはそれを笑う者もいた。奇異な言葉はおかしくもあったろう。また、沖縄の女たちは、他の土地にくらべて一般にあか抜けしていないと評されるのだが、さらに感情をあらわにしないように口に手を当てて笑うのだった。
税関手続きから開放された正輝は他の連中のあとを追うこともできたのだが、まったく知らないところをひとりで出歩く勇気はなかった。叔父たちもまた未知の土地を散策する気もなかった。ひと組の夫婦ともうひとりの同行者。そこにいるのは、いわゆる構成家族とよばれるカテゴリーに属する人たちだった。12歳以上の息子、あるいはそれに準ずる親類の者。同行者は働き手であれば、だれでもよかった。ブラジルが必要としていたのは働き手、労働者だったのだから…。
サンパウロまで運んでくれる列車を三人は辛抱づよくまった。
沖縄には鉄道などなかったから、汽車の旅は印象的だった。日本の南端にある小さな島には鉄道網が入るのが遅れていた。遠く離れた村をむすぶ交通機関の存在を知ったのはほんの数年まえだった。南の首都那覇と北の主要農産地名護をむすぶ道路が開通されたのが1915年だ。港からまっすぐ神戸の移民収容所に連れていかれたので、汽車にのる機会はなかったし、港湾区内で身体検査をうけ、必要な書類をもらい、地球の反対側の国についていろいろ聞かされて何日かを過ごした。そのあと、すぐに若狭丸に乗船したから、汽車にのるチャンスはない。
いま、こうして本物の汽車をみる機会が与えられている。列車はすべて2等席だった。座席は木材だが、座り心地よさそうにみえた。車両はみな清潔で、乗客の割り当てもきちんとしていた。サンパウロまで大勢の移民をはこぶのに特別列車が用意されていたのだが、若狭丸から下船した人の数はそれをはるかに上回り、三、四人掛けの座席に六人ずつ座らなければならなかった。
正輝たち三人は窮屈ではあったが同じ座席にすわることができた。正輝は窓ぎわに座り、すばらしい景色をながめた。汽車が出発して一時間ほどたったころ、後方をみると、山脈のなかを上ってきたことがわかった。高いところから眺めると、陸地がまがりくねった海岸線に縁どられているのがすぐそこに見え、そこから切り離されているのは島なのだろうと正輝は憶測した。
薄暗くなり、山脈を半分以上のぼったところで夜が訪れた。汽車がカーブするとき、下界の暗闇のなかに小さな光を見つけた。それはサントス市の光りで、そのしばたきは正輝を感動させた。病、死、隔離、落胆、疑念、待機がすでに過去のものになっていた。ここが聞いたとおりの前途有望な世界なのだ。神戸の移民収容所以来感じたことのない心地よさ。たとえ木製の席に窮屈にかけさせられていても気持ちがよかった。体を伸ばし、腰を椅子から少しすべらせた。船旅中させられていた姿勢よりずっと楽だ。