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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(18)

 この教育制度こそは、それまでの封建的な武士政権にあって、三世紀も世界の発展からとり残され日本に、世界と肩をならべるほどの大きな活力をもたらしたのだ。
 教育改革法は1872年に発布されたが、それによると、日本は八つの教育地域に分けられ、各地域には1つの大学、32の高等学校が設立された。また、高校1校につき、210校の小学校が設けられた。平均すると、住民600人につき1校ということになる。
 8年後には全国に2万8千の小学校が建ち、200万人以上の生徒を受け入れた。この数は学齢期の子どもの40%、1886年には学齢期の子どもの48%が通学するようになった。そして、1890年に60%、1895年に90%、1906年に95%と上昇の一途をたどり、政府の方針は急速に効果をあらわした。
 奈良原知事及び前任者時代の沖縄の教育改革の進展はもっと著しく、1880年の学童は2%にも満たなかった。正輝の祖父母は読み書きができたが、ほとんどの島の住民は文盲だった。1887年、通学児童は6・7%、10年後には36・8%にまで上がった。奈良原が県知事をやめた1908年には学齢期の92・8%の児童が学校に通っていた。沖縄には専門学校および女子高等学校も設置されていた。
 小学校は8年で、1日5時間、週6日制だった。初めの4年間義務教育とされ、小学校のあと、4年間の高等学校につづくのだった。
 教育は明治政府にとって、最大で重要な課題だった。計画どおりの早急の結果が期待された。そのため、全国の教育方針や教育水準に対し、きびしい監査が実践された。教科書は政府が指定し、各地方の教育機関を通し、各学校の動向が検閲された。英国の歴史家ウィリアム・ビーズリーは、
「全国の教育は政府の方針によって、一方は実生活にすぐ役立つ西洋のカリキュラムにそった教育、もう一方は孔子の道徳にしたがった天皇中心の国粋主義にそった教育、この二つが柱になっていた」
と記している。目的は二つあった。まず、天皇に忠実な人間を育てること。もうひとつは近代的知識を身につけさせることだったであろう。
 1889年2月に明治政府が発布した憲法と、1890年10月明治天皇による教育勅語は、新しい日本国民を涵養する二つの重要な項目となった。憲法にはこれまでと違った天皇と民(公民)の関係を記されているのだ。憲法のなかで天皇はいっている。
「天皇は日本の象徴であり、神聖である」
 つまり、大臣など天皇につかえる者たちから罰を受けたり、責任をとわれることはない。国家の永続と統一をになう日本の象徴であり、どんなに権威ある機関もその権限をおかすことはできない。そして、日本の神を信仰すべき神道は政府の後ろ盾を受けていたから、孔子の教えをまっこうから逆らうことなく、天皇の神聖を説いたのだ。教育の中心とした明治の新しい倫理を組みこんで、学校の新しい行事にまで組みいれられ、この驚くべき短文の教育勅語は日本の歴史に新風を吹き込んだ。
 同じころ、国民を思想的に縛りつけるもうひとつの勅令が発布された。1882年に出された陸軍、海軍へ勅令で、短い教育勅令と違い多数の章からなる長いものだった。これによると、軍人(この場合、天皇制のもとにあるすべての国民も入る)は忠節を尽くすことを義務とすることがはっきり明文化されていた。また、規律と階級制度に従うことも明白な条項だった。
「上からの命令は天皇の命令と心得よ」