もうひとつ臣民が従うべきこと、それは武勇を重んじることだった。
「上級のものは下級のものに向かって、少しも軽んじて侮ったりしてはならない。そして、下級のものは上級の者を畏怖すべきではない」
また、質素であるべきであることも公民に求められた。
「軍人は質素を第一とするべし。武を軽んじ文を重んじるようになれば、人は軽薄になり、贅沢で派手な風を好み、志ひどく卑しくなれば、意気も武勇もそのかいなく、世の人々からつまはじきにされるまでになるだろう」
愛国心と天皇への忠節が国中に伝えられたきわめつきの道徳観念だった。
国家の対外政策の成果はこの機運をますます増長させた。1895年の大中国(清国)に対する日本の勝利は、日本帝国の領土拡張主義政策のきっかけをつくることになったのだ。
1874年、日本政府は最後の琉球王尚泰の王位剥奪と、沖縄を県とするために中国に琉球列島の正式な領地権を主張し、中国は対策上それを受け入れた。
しかし、朝鮮の問題があった。明治政府は成立以来、アジア大陸北東進出への足がかりとして、朝鮮半島を支配しようともくろんでいた。1876年、それまで中国の属国だった朝鮮に開港させ、中国に欧米と同じく不平等条約を結ばせた。翌年、朝鮮出兵が拒否された西郷隆盛が不平士族を抑えきれずに中央政権と対立し、反旗を翻すことになった。明治政府はむやみに出兵に反対だったわけではない。軍事力確立をめざす明治政府は時期早尚と考えたのだ。
1894年、朝鮮で反政府グループによる内乱が勃発した。朝鮮は宗主国である中国に援助を求め、兵を送った。この中国の出兵は1885年に結ばれた天津条約に違反するとし、日本も兵を送った。その年の7月、日本は中国にこれ以上兵を送らぬよう勧告し、すぐあと、宮殿を占領した。中国は日本の立ち退き要求を拒否するか、それとも、それを受け入れるかのせとぎわに立たされた。このようにして日清戦争が始まったのである。
1894年、日本軍は中国大陸に進出した。二つの師団が満州の東部をすばやく占領し、三師団が遼東半島を占領し、渤海の入り口にある北側の旅順を占領した。翌年、日本軍は渤海の東南側の威海衛を占領した。この威海衛の占領により、日本軍は北京を目指してその道をひらいたのだ。
敗北した中国は日本との交渉に応じた。朝鮮の独立を認め、付属諸島を放棄した。(これにより、日本の朝鮮侵略の道が開かれた)台湾、旅順を含む遼東半島を日本に引渡し、四つの都市(沙市、重慶、蘇州、杭州)を海外貿易に開港したほか、日本に対し多額な賠償金まで支払った。
期間は短かったが、この戦争はアジアにおける中国の衰退そして、日本の軍事力の強さという二つの現実を明らかにした。日本の文明化による成果の賜物といえよう。しかも、それはたった四分の一世紀という短時間でなされた成果なのだ。1867年まで鎖国し封建制度をつづけていた日本が1895年には軍事力をつけ短期間で、しかも、うむもいわさず何世紀にもわたり支配してきた政治的、経済的、軍事的に東国最強の国と考えられていた中国を敗北に追いこんだのだ。
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