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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(23)

 しかし、正輝、その家族、隣近所の人、新城の村、沖縄全土の人々がどんなに愛国心をもっていたとしても、島を容赦なくおそう自然の脅威、あるいは政府の性急すぎる社会的、経済的変革のあおりを受けて、それが正当か否かは別として、施行された土地分割や生活手段の変わりように耐えることができなかった。それは辛抱強い、運命をあまんじて受ける沖縄人にとってさえ、耐え切れないものだった。
 1881年の島の人口は15万人、人口密度は1キロ平方あたり114人だった。日本中のどこよりも人口密度の高いところなのだ。彼らは日本の土地の生産性の半分にも満たない荒地の島に住んでいた。1914年ごろにはこの暮らしづらい、痩地の沖縄の人口は39万6000人に膨れあがり、人口密度300人になっていた。この急激な人口増加はこの地の大部分をしめる農家にとって大問題となった。
 大問題を抱える島民に追いうちをかけるように、自然現象は容赦なくおそった。1899年と1901年、大きな台風が八重山島をおそい、1903年には硫黄島の鳥島火山が噴火し、690人が久米島への移動をよぎなくされた。1904年には琉球列島全体に長期の干ばつがつづき、諸島の人々を苦境におちいらせた。
 1908年には全島に豚コレラが発生し、養豚業者は経済的に大きな被害をうけた。養豚業は全島でさかんで、豚肉は沖縄料理に欠かせない食材だった。1911年と1912年、台風と地震がこの地を襲った。その台風は1917年と1918年に経済的不況をもたらした。(その影響はその後もつづいた)
 砂糖だけのモノカルチャーにたよるこの地の経済は、世界市場の砂糖価格に左右されるのだが、1918年、想定外の短期間に砂糖価格が暴落した。それは島の経済崩壊を意味した。

 正輝の家族は1920年代にどんなことが起きるか、とうてい予想などできない状態だった。家族の問題と島の経済危機が重なり、保久原家は危機の崖っぷちに立たされていたが、これ以上状況が悪化することも考えられなかった。
 ところが、それから何年かたって、沖縄の住民の状況がさらに悪化した。砂糖がもたらした危機により、全島の多数の沖縄人がこの地にたったひとつ残された食用植物を食べなければならない状態にいたらせたのだ。
 その植物とは島に野生する「ソテツ」で、質の悪い澱粉はとれるのだが、うまく調理しなけらば、人体に有害だった。そのため、何人もの人が命を奪われ、それを島の人々は「ソテツ地獄」とよんだ。以前は農民が貧困のどん底にある時期を「ソテツ地獄」とよんでいたのだが…残された水、薪、わずかな食物は少量ずつ、みんなに等分に分けられた。この村全体の窮乏は新城の住民の絆をますます強くし、この連帯感はずっと後までつづいていった。沖縄からブラジル移民としてわたったこの村の者たちに引き継がれていたのだ。この連帯感は新城だけでなく島の全住民にもあった。
 この貧困生活のどん底にあった忠道は、経済危機をごく短期間に解決するために思い切った方法をとる以外に家族が生きていけないと覚悟を決めた。
 家族を経済的危機にさらしたのは、気象条件や政府の改革案だけではない。忠道そのものが家族を破滅におとしいれた大きなそして、決定的な原因をつくった張本人でもあった。彼がむちゅうになった賭けごと、女、酒の代金が家の財産をつぶし、それに政府改革、経済危機が追いかぶさり、これ以上家族の食いぶちも支えきれない状態にしてしまったのだ。