わずか2年で崩壊
茶と桑の木は枯れ全滅
しかし順風満帆な日々はそう長くは続かなかった。その後、若松コロニーをめぐる状況は一変する。
当時カリフォルニアはゴールドラッシュ全盛期。若松コロニーがあった場所の近郊では次々と金が発見され、採掘が行われていた。金の採掘には水が不可欠。その金の採掘現場から流れ出た汚染物質により、若松コロニーの桑や茶の木は汚染され、水不足などの要因も重なり枯れてしまったのだ。
71年8月6日付のデイリー・アルタ・カリフォルニア紙には、若松コロニーの崩壊が報じられる。記事によるとこの土地の赤みがかった土は、通常茶の栽培に適しているとされ、日本から持ち込んだ茶の木は順調に成長しているかに思われた。しかし、金山から流れ出た鉄や硫黄などの成分を含んだ水に茶や桑の木は汚染され、次第に枯れはじめ全滅。シュネルの計画は失敗に終わったと伝えている。また月給4ドルという給料も入植者たちの生活を圧迫。異国で家族を養う苦難も重なり、こうした状況下から若松コロニーは崩壊したと経緯がつづられている。
シュネル一家は金策のため日本に行くと言い残し若松コロニーを去るが、二度と戻ってくることはなかった。その後の行方は分かっておらず、本当に日本に行ったのかさえも分かっていない。日本に戻って殺されたという説もある。
アメリカ本土で最初に亡くなった日本人の女の子
新天地開拓の夢破れ、入植者たちは若松コロニー崩壊後、日本に帰る者、同地に残る者、それぞれの道をたどった。
おけいは会津若松の大工・伊藤文吉とお菊の長女で、渡米前から近くに住むシュネルの子の子守りをしていたという。わずか17歳で親元を離れ、カリフォルニアにやってきたが、若松コロニーは2年で崩壊。シュネル一家は去り、言葉も違う異国に取り残された。だが彼女を引きとったビアキャンプ家はおけいのことを本当の娘のように可愛がったという。
ドイツ系移民で初代ビアキャンプであるフランシス、ルイーサ・ビアキャンプ夫妻には6人の息子がおり、おけいはその幼い子どもの子守りとなった。
ビアキャンプ一家から大切にされていたおけいだったが、71年夏、突如熱病にかかり3日後に帰らぬ人となってしまった。わずか19歳だった。
アメリカにわたる娘の背中を日本で見送ったであろうおけいの父と母はおそらく、娘の死を知らぬまま生涯を過ごしたとされる。
桜井が作った墓はひびが入り老朽化が激しく、現在ある墓は大理石で新たに作られたレプリカだ。
言い伝えによるとおけいは生前、夕日が照らす小高い丘の上にひとり佇み、時折、会津若松の方角を眺めていたという。故郷を思い、会えぬ父母を思っていたのかもしれない。今その場所に彼女は眠る。
彼女の墓が見つめるその先は、遥か遠くにある故郷会津若松だ。1957年には会津若松におけいの記念碑が建てられ、おけいが眠るカリフォルニアの方角を見つめている。<羅府新報1月1日付け(https://bit.ly/2Cuy4xH)より転載、つづく>