「仕事中、ふつうの休み時間より長く休むことで、この先も働きつづけられる。これは竹がしなって、強風をしのぎ、そのあと、すぐに、もとどおり真っすぐ立ち直る。それと同じことじゃないか?」
習慣、目的、文化、価値観のちがいなどから日本人が農園の他の労働者の日常生活に影響をあたえることもあった。正輝の家族はほかの日本人と同様に日曜日、教会に行かなかった。他国の移民は宗教がありながらなぜ、日本人は教会に行かないのだろうと思った。
彼らは日本人が家庭内で祈ることを知らなかったのだ。特に沖縄人はその傾向がいちじるしく、ほとんどの家では仏壇を座敷においていた。保久原家の人たちは毎日、そこで、先祖に保護と助言をもとめて祈っていたのだ。
日曜に教会へ行く義務はなく、日本人は一週間、ぶっつづけで働いた。そのことが農場主の目にどう映るか、ヨーロッパ人やブラジル人はどう思うか考えもしなかった。日本人がそれだけ働けるのに、他の労働者がなぜそれができないのか?。他国の入植者は自分たちをいらだたせたり、おこらせたり、不愉快にさせたりするために、そうしているのではないかとかんぐった。──正輝は気がついていた──金を貯めて、できるだけ早く故郷に帰りたい一心で日曜も働いているのだ、ということに気がついていた。
ことばの壁以外に、こんな事情が他国の入植者たちとの距離を広げ、同胞だけでクループをつくり、農園内で孤立していき、そのことがまた母国に対する誇りをますます高めていった。かといって、これは敗けを認めないということではない。価値観について正輝同様、彼らもまた独特の解釈をした。自分の都合に合わせて曲解をしたり、受容しながらも、彼らはブラジル社会に溶けこむことができなかったのだった。
日本人会を通して、日系社会にたびたび顔をだすようになった保久原一家は母国の情報がもっと手に入るようになった。周囲の人たちの個人情報ではあったが、それを集積することによって地球の反対側でなにが起っているかを知ることができる。それから出版物が出回るようになった。日本人会に顔を出すことによって、生涯つづくことになる読書に出会ったのだ。読書は正輝が農場の仕事にみいだせなかった充実感を与えてくれるものだった。地域で出回る日本語の書物は決して多くはなかった。しかし、正輝はそのすべてをむさぼるように目を通した。彼らがブラジルに着いたころにはこのような書物などなかったのだが、日が経つうちに数が増え、内容も充実していった。
邦字新聞は1915年、星名謙一郎により「南米」が発行されたのが緒である。主にサント・アナスタシオ、アルヴァレス・マッシャードを中心に出回ったのだが、3年後にはサンパウロ市、バウルー、サントス、リベイロン・プレット、その他ソロカバナ地方の広告が出されるようになったことで、新聞の購読範囲がどこまで拡大しているか分かった。日本のニュースをはじめ、養蚕の技術指導、それから葉切りアリ(sauva)の駆除などを含む農作業の注意事項なども掲載されていた。
1917年には金子保三郎と輪湖俊午郎が主筆になって「日伯新聞」、また同じ1917年、黒石清作が「ブラジル時報」を発刊したが、これは当初「海外興業移民会社」の機関紙として出発し、後に新聞となったものだ。また、日本語の本や雑誌が、同胞社会(コロニア)に出回るようになってもいた。
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