溝部事件――今なお真相は不明――。
そして3月7日夜、殺気は現実のモノとなった。溝部幾太が自宅の裏庭で射殺されたのである。
それから69年後の2015年、筆者は溝部の娘さん二人に会った。娘さん…といってもお婆さんになってサンパウロ市内に住んでいたが、そのお姉さんの方の話によると――。
溝部が撃たれた時、彼女は家の中に居て異変を感じ、様子を見に裏庭に出た。すると父親がポルタの外側の横の壁の処に倒れていた。「お父さん!」と叫んだ。
このほか、二人から種々の話を聞いた後、筆者はバストスに行き、現場を訪れた。当時のものだという母屋は使用しておらず、ガラクタで埋まっていた。小さな裏庭の奥には高い塀があり、それに向かって左側は建物の壁だった。かなり古い感じで、これも当時のものの様に思えた。
右側には小さな家と空地があり、小道がついていた。小道を歩いて行くと直ぐ街路へ出た。(この小道が事件時もあったとすれば、狙撃者はここから入って来たのではないか)と推定した。
ところで、その狙撃者と動機ついては、諸説が存在する。内一つは「狙撃者は臣道聯盟員の山本悟で、その祖国必勝の信念によって、敗戦を宣伝する溝部に天誅を加えた」というものである。山本は事件の翌年「自分がヤッた」と自首しているから、実際、狙撃者であった確率は高い。ただ、何故か動機を詳しく語っていない。それと、彼は臣道聯盟には属してはいなかった。
この他、容疑者として別の何人かを上げている資料もある。これは臣道聯盟の関与を匂わせている。さらに次の様な説もある。「狙撃者は(山本悟ではなく)バストス産組の職員で、溝部によって解雇された男。
当時、組合は戦時中にやった大型蚕種製造所の建設が終戦で裏目に出、破産に瀕していた。ために溝部は、職員の馘首や組合員に対する債権の厳しい取り立てを始めていた。しかし蚕種製造所の建設は、溝部がやったもので、まず自分が責任をとるべきだ――という声が内部に強かった。
溝部は、それを無視し職員5人を解雇した。すると、これに抗議して11人の同僚が辞表を出し、その動きは女性職員にも広まろうとした。
対して、溝部は強硬姿勢を崩さなかった。その上、サンパウロ出張の折、料亭で使った金を経費として落とそうとした。ために馘首された職員の一人が溝部を撃った。彼は後に『自分が溝部をヤッた』と友人に告白した。馘になった上、健康を害しており、精神的におかしくなっていた」
この他、筆者は溝部の娘さん二人から、次の様な新説も聞いた。「5、6年前、山本悟の娘という中年の婦人が訪ねてきて『父は、誰かからお金を貰って溝部さんを撃った。本当に申し訳ない。お詫びします』と話していた」
この「誰かからお金を貰って」の部分が新説である。
ただ、その婦人は詳しいことは何も話さなかったという。筆者は、婦人の電話番号を溝部姉妹から聞き、後でかけてみたが、何度かけても不通であった。住所は不明だった。
山本悟の結婚は、事件のずっと後であり、その娘だというこの婦人の話は、裏付け材料がないため鵜呑みにするわけにはいかない。が、否定材料もない。
こういう具合で、溝部事件は今なお真相は不明である。気になるのは、襲撃の動機が戦勝・敗戦問題とは関係なかった可能性があることだ。真相を明らかにしてくれる新材料の発見が待たれる。
なお、ここで付記しておきたいことがある。溝部幾太の日本での経歴であるが――。
筆者は『百年の水流』改訂版で溝部を「山口県人。郷里で30歳で村長になり、日本一若い村長と評判になった」と書いた。これは『皇紀二千六百年記念 在伯同胞発展録』という書物から引用したものである。
また、山口県人会出版の『移り来て五十年』303頁には「(溝部は)二十代から村長として長く村政に…」とある。この本の編集者は溝部義雄で、幾太の弟である。
ところが『バストス二十五年史』では「長く助役として…」となっている。
さらに移民百周年(2008年)前後、共同通信の記者としてリオに駐在していた名波正晴氏が、帰国後に調査をし、筆者に送ってくれた溝部の出生地=山口県宇津賀村=に関する公的資料には「大正十三年六月、助役に選任された。郷党とともにブラジル移民を決意、昭和二年九月辞職、家族十人とともに同月二十二日ハワイ丸にて…(略)」と記されている。
つまり、狙撃者や動機だけでなく、日本での経歴についても複数の説があるわけだ。(つづく)
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