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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(53)

 生活費を稼ぐために、請負人はコーヒー栽培の合間に米とフェイジョン豆の間作がゆるされ、収穫物は彼らのものになるのだった。また、最初に収穫されたコーヒーも彼らがうけとった。請負期間がすむと、契約金をうけとり、そこを去った。この金でコーヒー栽培者になった者もいる。
「1927年当時、3700の日本人家族がノロエステ地方一帯に住んでいて、そのうち974人がコーヒー園の入植者、そして、631人が請負人としてはたらいていた」という記録がある。
 1920年の前半、日本人が「土地購入熱」とよんだ現象があらわれ、「土地を買わない者は日本人にあらず」といわれたほどだが、それも長くはつづかなかった。
 1924年内乱が勃発した。
 政治、社会情勢が悪化したばかりでなく、経済的不況をもたらしたのだ。そのうえ、1925年には旱魃により農産物の生産が打撃をうけた。土地を買った日本人は借金の返済におわれ、たちまち苦境においこまれた。彼らを救うため、日本政府までが補助融資をしなければならなかったほどだ。
 みんなが土地を購入したさい、買うことのできなかった者は借地人として、州内のさまざまな土地に移動していった。棉の栽培こそ借地人の本命だったのだ。しかし、彼らが借りた土地は地質が悪かった。土壌のよいところはコーヒー栽培に利用され、日本人には手がだせない土地だった。地味が減退し収穫がさがれば、べつの場所に移る略奪農をくりかえしたのは、わずかの手持ち資金を土地の維持費や改善に使いたくなかったからだった。
 保久原の人たちには、仲間たちのようによりよい条件を求めて、新地帯に移ろうという冒険心はまったくなかった。商売に関しての才能もゼロに近かった。移民たちが他地方に散らばっていくときでも、彼らは旧コーヒー地帯から動こうとしなかった。もし、グアタパラ耕地から出るにしても、同じ旧コーヒー栽培地帯内と決めていた。
 しかし、出るときにはすでにあの三人の家族ではなくなっていた。沖縄で結ばれた一家、神戸を出港し、ともに海をわたり、サン・マルチニョ耕地ではじめてコーヒーを収穫し、奴隷のような仕事から抜けだした三人だったが、すでに家族ではなくなろうとしていた。樽とウシは正輝とわかれようと決意していた。
 仕事には無気力で、金の倹約をしない。物質的な欲をもたず知的な関心を募らせる。これらが叔父たちと甥のあいだをひき離した原因だった。
 樽たち二人はできるだけ早く金を蓄え、故郷に帰るという沖縄からもってきた目的のため懸命に働いていた。一方、正輝は現在生きている社会になじもうとしていた。生きていくために平凡な日々を過ごすより、もっと大きな問題にとりくんでいきたいと願っていた。視野の狭い人たちに思いもつかない、将来を見すえていたのだ。
 正輝はすでに16歳を過ぎた。この年齢になると大人の干渉をうけず、独自の道を進むことも可能だった。那覇以来、苦労をかさねた正輝は、この先、樽叔父の援助をうけず、監視もうけず一本立ちできる力を備えたし、樽はまた正輝の年齢からして、長兄忠道にいい渡された甥に対する責任はすでに果たしたと考えはじめていた。