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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(55)

 こうして、グアタパラ耕地で知りあった者たちが、チエテ川から少し北にいったタバチンガで再び生活を共にすることになった。
 当時、その地帯では主に棉が栽培されており、彼らも棉栽培にとり組んだ。パウケイマダ耕地の土地を借りた。稲嶺盛一が選んだ土地は森林を伐採し、切り株を堀りだし、そのあと、ラバが引くスキで耕さなければならなかった。痩せて日本人や沖縄人の標準より背の低い盛一より、正輝の方が体力もあり、農機具の使い方になれているので、その仕事を引き受け、他の者たちは彼の仕事を補った。
 種まきは総出でおこなった。他のグループといっしょに、正輝も耕された土にタバチンガの村からもってきた種を撒いた。種を入れた穴に足で土をかぶせる。はじめのうちは穴と穴の間をいちいち、手の平半の距離を測って種を撒いたが、だんだん慣れてくると目分量で撒けるようになった。
 その年はちょうどよい雨が降った。播種してまもなく必要なだけ雨が降ったのだ。一ヵ月過ぎたころ発芽した。そして、いちばん強そうな芽を2本だけのこして、間引きをした。
 間引きする作業をブラジル人は「ralhada」とよんだ。正輝はこの言葉をどうしても発音できなかった。“r”で始まったり、“rr”とつながった言葉がきたとき、震わせて強く発音する“r”は彼がはじめて知った言葉だった。“cara”のように子音と子音に挟まれた“r”は問題なくいえた。それに、“lha”というのも正輝にはむずかしかった。”lha”に最も近い発音は“ria”だった。だから、「ralhada」は「ラリヤアダ」となった。いつも“r”が弱くて、“a”が長くなり、ポルトガル語のアクセントとはほど遠いものとなった。もちろんブラジル人は理解できない。日本人は彼らの真似をすることもできなかったのだ。
 間引きの後は樹が育ち、丈夫な枝をつけるのを待つだけだった。その後には枝の剪定がある。切る道具は特別のナイフだというが、なんのことはない、ただ、トタン板を研いだだけのものだった。正輝は枝を落すとき、人差し指を使った。彼の指の皮膚はコーヒー園の仕事をするうちにぶ厚く、強靭になっていた。枝の剪定は時間のかかる仕事だった。早朝から日が暮れるまで、何日も何日も剪定にかかりっきりだった。しかも、一本の棉の木に三回も剪定が必要なのだった。
 また、穿孔虫の駆除も必要だ。正輝たちが棉栽培をはじめたとき「この害虫は根を弱らせる」とおそわったものだ。
 ハキリアリの駆除も大切だ。たった一群のアリが棉の葉を全部食い尽くしてしまうこともある。アリがあらわれる兆候をみたら、すぐに巣をみつけ退治する。また、毛虫も問題だ。たった一晩で木を全滅させてしまう。毛虫退治には生石灰と硫酸銅溶液を混ぜたボルドーとよばれる液体を散布する。正輝は自ら進んでこの作業をした。手動ポンプを背に負い、右手でポンプのなかに圧力をくわえるバネを動かし、左手で液体を木に噴霧させる。体の位置を変えることなく、立ったまま木と木の間を歩くだけでよかったから、棉栽培のなかではごく簡単な作業といえた。
 そのころになると、みんなから「リンゴ」とよばれている実が吹きだした。その「リンゴ」が割れると、白い棉が現れた。そして、収穫の時期がおとずれ、農園は活気にみちあふれ、すべての者が収穫にかりだされる。すべてといっても、人数は少なかった。正輝とアサトの新婚夫婦は、正式に借地人として働く稲峰家の人間ではなかった。