清丸清が世話したサッカー留学生の一人、屋良充紀(やらみつとし、43、神奈川)=神奈川在住=は、帰国後の1995年に横浜でサッカー学校『エスコリーニャFC』を立ち上げ、「10年後にはJ3を目指す!」と頑張っている。
屋良が滞伯したのは89年から93年で、レジストロには90年から91年に在住し、コメルシアルでボランチをしていた。屋良はリベイラ河沿いの広場にある『闘魂』の石碑に感銘を受けた。メールでの取材に《日本人移民の力強さと心意気を感じていました》と振りかえった。
07年に日本サッカー協会から中東に派遣され、シリア代表コーチ兼技術スタッフ(08~09年)を務め、テレビ出演、サッカー情報誌にコラム執筆などの活躍をする。
清丸の印象を尋ねると、屋良は《言動、行動ともに『熱く正しい日本人』という感じ。思いついたらすぐ行動するフットワークにはいつも驚かされました》という。
清丸との出会いを尋ねると、《モンチネグロFC(現オザスコFC)でプレーしていた時、レジストロでコメルシアルと試合があった。その試合後、帰る途中のパーキングで食事していたら「今日10番でプレーしていたジャポネースはどこかね?」って車で追っかけて来た日本人がいた。仲間と食事していたら、いきなり近寄ってきて「コメルシアルでプレーせんかね?」と話しかけてきた》と当時を振り返る。
コメルシアルでの経験をバネに、92年にサンパウロ州リーグ1部だったサントアンドレで、日本人としては当時ごく珍しいプロ契約を果たし、さらにエクアドル、コロンビアでも経歴を重ねた。
屋良が清丸に紹介した96年当時の留学生が現在、フットサル日本代表のコーチ兼通訳をやっている小森隆弘だ。彼らのような清丸の〃教え子〃が日本サッカー界の一角を支えている。
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清丸米子はいう。「夫は若い時からRBBCの役員をしていたが、80周年の時に『レジストロは日本人植民地だから、どうしても文協、日本人会が必要だ。スポーツクラブより文協の方がいい』といってあちこち歩いてお願いして回り、会員を集めた」。RBBCの会員のうち日系人は半分ぐらいだったという。
那須野英男を80周年祭典委員長とし、1993年10月に記念行事が行われた。その一環として、一端解散していた「レジストロ日伯文化協会」の復活を決め、翌94年1月に創立総会を開催して清丸が初代会長に就任した。これを機に同年から『スシ祭り』を開始し、現在まで続く。
RBBCはスポーツ中心、文協は日本文化活動との住み分けが始まった。RBBCにはテニスコートやプールもあるが日本人はあまり利用しない。それらの施設を維持するために会費が高くなるなどの不満が溜まっていたとの話も漏れ聞いた。
リベイラ河沿岸日系団体連合会の山村敏明会長も「レジストロで日系活動が活発化し始めたのは1993年に文協ができてから」と頷く。それまではRBBCの中の「日本文化部」という従属するような存在だった。
奇しくも80周年では大工原正ジョルジを委員長としてリベイラ河沿いで大鳥居落成式も行われた。本紙の調べでは、現在までに全伯に約100基の鳥居が建立されているが、30基が移民90周年からの10年間に移民百周年を睨んで建てられ、47基が百周年(08年)の年だった。
レジストロ以前の鳥居の大半は社がある伝統的な様式だった。「社なき鳥居」はリベルダーデのガルボン街に1974年に建てられたのが最初で、それが〃日系のシンボル〃として地方にコピーされ始めたのは90年代以降であり、レジストロはその最初の一つだ。
「社のない鳥居」を建てるという行為には、その地に〃日系魂〃を込めるという意味があったのかもしれない。(つづく、深沢正雪記者)