そこで1928年、内務省の社会局は法令1229により新しい収容所を建設した。以前より広くモダンで居ここちよく、身体検査や予防注射もスムーズにできる場所になり、指導や訓示も与えやすかった。コンクリートの五階建てのりっぱな建物で、600人が収容できた。さらに、1930年には増築され1300人まで収容可能になった。
日本の家族から手紙をもらっていた正輝の友だちは、このように日本政府の移民の政策が緩和されても、はたして、ブラジルへくることが得策なのか話し合った。正輝の友人、グァタパラ耕地で三線を弾き、彼の影響を受けタバチンガに移転したアサト樽も手紙を受けとったひとりだった。
不況は相変わらず沖縄の人を苦しめていた。安里の親戚は「ソテツ地獄」ではないものの、満足な生活にはほど遠い状況にあった。姪のカマー(一番上の姉、カマドゥーの娘)は既婚者で、故郷の地をはなれて、すでにブラジルにきていた。今度はいちばん下の妹で、独身の房子が家族からこちらに送りこまれようとしていたが、それが問題だった。
当時、家族の一員であれば未婚女性の渡伯は認められているのだが、それ以外の未婚者は規定外とされた。房子は、1907年(明治40年)11月19日に正輝の生地、新城の隣の玻名城で生まれた(正輝は1904年11月21日に生まれているから3歳と2日のちがいとなる)。房子と長姉カマドゥーの年の差は20歳もあるのだが、これは母親のウシが長い間に、なんと11人もの子どもをもうけたためである。
カマドゥーは従兄弟のイイモリ次郎と結婚し、母親のウシが房子を懐妊したとき、カマーという娘をもうけていた。つまり、房子は姪より後から生まれたということになる。房子の兄弟姉妹の子ども、つまりカツ、コウセイ、コウエイ、キョウ子といった甥や姪は彼女と似たりよったりの年頃なのだ。だからいっしょに育った房子を叔母として扱うことはなかった。甥や姪のように家族全員がウサグヮーという愛称で呼んだ。
房子より少し年下のカマドーの次女は小さいときから花城では飛びぬけて美しい娘だった。正式な名前はウサーだったが、ウサグヮーの愛称でよばれた。叔母である房子と同じ愛称だったので、たまに、いきちがいがおきた。それをふせぐために、どの家に住んでいるかで判断した。
叔母房子ウサグヮーは、村の前方にある従兄弟たちの城間家に住んでいた。城間は沖縄式ではグスクマになり、沖縄語で前方を意味するメーを名字の前に使った。
つまり、房子の場合「メー・グスクマ ヌ ウサグヮー」つまり、「グスクマの前のウサグヮー」となった。村の後方に住むグスクマは一級下の家族で、小さいという意味のグヮーという言葉を名前の前に使った。姪のウサーはそこに住んでいたので、「グスクマグヮー ヌ ウサグヮー」つまり、「小グスクマのウサグヮー」とよばれたのだ。村をよく知らない者にはだれがだれか分らなかったが、家族同士ではそのようによびあっていた。
村に多いカマーという名も人違いのもとになった。房子の姪カマーがそのいい例だ。母のカマドーもカマーとよばれていた。だからといって、娘のカマーを愛称のカマグワァーとよぶわけにもいかなかった。
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