叔父の樽は少し前、サンカルロスに移り、町のそばに農園を借りて、野菜を栽培し朝市で売っていた。家族が増えていた。
1921年から1923年、イガパラヴァにいたとき、長女のハツエと長男ヨシアキが生まれた。1925年タバチンガでヨシオが生まれた。沖縄人らしく顔が真っ黒で、丸顔がノルデスチノ(東北部地方の人)に似ているので、「バイア」とよばれていた。1927年タダオが生まれ、みんなから「ゼー」とよばれた。1929年サンカルロスで、ヨシノリが生まれた。ズボンをはかず、ガルチャ(チンポコ)丸出しだったので、沖縄式に「ガルセント」よばれた。1931年ルイスが生まれ、初めてブラジル名がつけられた。ただ、「L」の発音ができなくて「R」になり、みんなは「ルウイス」とよんだ。
祝いの席には特別な食べ物はなにも用意されなかった。その日の夕食に作ったものを二家族でもちよった。ただ、三々九度のしきたりは守った。三段になった杯に若い者が酒を注ぐ。この役には安里の長女フミ子と稲峰の長男セイハチが選ばれた。二人は新郎新婦の前で、杯に半分ほど酒を注ぎ、差し出した。
まず、正輝がつづいて房子がほんの少し飲んだ。本来なら、家族がそろっていたら、次に新郎の両親、つぎに新婦の両親が三つの杯から少しずつ飲む。そのあと、近い親類の順に従い、二方の親類の者がのみ、二家族が結びつくことになる。だが、新郎新婦二人の両親は遠い日本にあり、そこに集まった友だちみんなで飲んだ。ピンガは初めての者には強すぎる。そこで杯にはキニーネ入りぶどう酒という、どの家にも常備薬としておいてある、熱さましのぶどう酒が注がれたのだった。
新婚夫婦は、稲峰が住むパウケイマド耕地から百メートルほど離れた場所に住んだ。タバチンガに集団で住む日本人の家と同じように、食堂をかねた居間、煮炊きする釜戸、それに寝室の、そまつな家だった。1・5メートル平方のテーブル、それに戸棚と食器棚が一組になったジャカランダ(ブラジル・シタン)の家具を買うことができた。場所が広ければ家具はもっと引き立っただろう。家の裏には屋根つきの庇があり、そこを洗濯場や入浴場にした。家から10メートルほど離れたところに、穴を板でかこった便所。ほかに鶏や豚などの家畜を飼ったり、自家用の野菜を植えたりする場所がじゅうぶんあった。
夫婦は時間に余裕があれば、家畜を飼い、野菜を植え、日々の食材にはことかかなかった。稲嶺が借地した土地ではいっしょに働き、その収益は家族と等分にうけとった。それは借地農で生きる他の移民たちとまったく違わない生活だった。
親類や仲のいい友だちとの日常はたしかに、生活の味気なさや苦労は少なかった。けれども、正輝や仲間は何か物足りなかった。食べ物にはもう慣れていた。しかし、ことばやガイジン(日系人以外のブラジル人)との習慣の違いは、自分たちだけ孤立しているように感じていた。グァタパラ耕地のような日本人会はまだできていなかった。
社会的なつき合いといえるのは少数の仲間と集まることだけだった。盛一、安里、正子どもは野良から帰ったあとの家事をするだけだった。稲嶺盛一はいちばん年上のこともあって、思慮分別があり、常に夜の雑談をお開きにするのは彼だった。自分は床につくと伝え、残りの二人にもそうさせた。そうしなければ、二人は世間話を一晩中つづけただろう。翌朝、出かけようとする自分が、二人に待たされないためでもあった。
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