3日目に、また、症状がぶり返した。はじめのときよりは軽いが、まったくあの時と同じ状態をくり返した。はじめ寒気をもよおし、唇が紫色に変わり、吐き気がして、震えがくる。そのあと、熱があがり、汗をかき、喉が渇く。そして、気が静まり、眠る。房子は、はじめのときと同じぐらい時間がかかったように感じた。
一家には相談できる相手がいなかった。彼らが住む小さな村落には医者がいない。彼らは地方で一番大きいアララクァラの町に医者を求め、夫婦、長男、まだ、ほんの赤子のアキミツをつれて一家全員で行くことにした。
まっすぐ保健所を訪れた。
たどたどしいポルトガル語の説明をきくなり、当直医は「マラリアだ」と診断した。夫婦は正幸がかかった高熱、寒気、痙攣、下痢、嘔吐を引き起こすマレイタという病気のことは聞き知っていた。けれども、マラリアははじめて耳にする病気だった。親切な医者は世間ではマレイタとよばれているがマラリアのことだといった。
医師は諭すように、できるだけ分かりやすい言葉をつかって病気について説明した。伝染病でアノフェレスという蚊に刺されて伝染すること。夫婦は蚊の名前は覚えられなかった。適当な治療がなされないと貧血、痙攣そして、こん睡状態になるといった。だが、よく利く薬があるからと、彼らを安心させた。キニーネという薬品で、子どもの体重に応じた量を3日ほど飲ませる。キニーネの投薬による治療は確実になおると教えてくれた。
その通り、子どもはすっかりよくなった。しかし、タバチンガのパウケイマーダ耕地という無医村にちかいところで起った恐ろしい経験と二年前、短い期間だったが、正輝がサンパウロで得たすばらしい出来事を比較してみたとき、もっと便利なところに移りたいという気持ちを抑えられなかった。
「アララクァーラはどうだろう?」と正輝が提案すると、房子も同じことを考えていたと答えた。
それを思慮分別があって、人生経豊富な稲峰盛一に打ち明けた。すると、彼もそのような意見をもっていることが分った。彼はサンパウロ近郊のサント・アンドレという町で、近郊ならではの洗濯業や自由市場業者が利益をあげているという友人からの情報を得ていたのだった。
そこで、土地を借りているパウケイマダ耕地の持ち主と話をつけ最後の棉の収穫がすむと、よりよい生活をもとめてサンパウロ近郊に移る決心をしたのだった。
第5章
アララクァーラ
1930年なかばのアララクァーラはすでにサンパウロ州の奥地の都会としての形をそなえ、人口1万5000人ほどの町になっていた。1908年から17年までの初期の移民のうちの、232人がサンパウロ市から275キロはなれたこの地にやってきている。日本移民の地として、このアララクァーラはふたつの点で先駆的だった。
ひとつ目は1912年ごろ、この地で最初に農場側の請負人(コーヒー園造成人)と日本人移民の間で契約が結ばれたことだ。契約人はグァタパラ耕地のジョゼー・サルトリオという人物で、働き貯めた金でその町の土地を購入し、のちに農場主にまでのしあがった男だった。ふたつ目は1915年3月15日この町のモトゥカというところに、ブラジルで最初の日本人植民地「東京植民地」が誕生したことだ(1908年、最初の移民船笠戸丸の五人の通訳の一人だった平野運平が中心となってできたカフェランジア植民地は1915年9月に設立)。