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主権回復の4月28日は、沖縄には「屈辱の日」

講演する山城千秋・熊本大学教授

講演する山城千秋・熊本大学教授

 「皆さん、今日4月28日が何の日か知っていますか?」―講演の冒頭で、山城千秋・熊本大学教授が聴衆に質問したが、誰も答えられなかった。ブラジル沖縄移民研究塾(宮城あきら代表)が主催する第1回文化講演会「沖縄産業開発青年隊が果たした歴史的役割」が本部講堂で行われた時の一幕だ。
 「1952年のこの日、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、沖縄が正式にアメリカの領地となった屈辱の日です。これが青年隊創立に関係しています」。これを聞いて、考え込んだ。
 「サンフランシスコ講和条約」といえば、第2次大戦を最終的に終結させるために1951年9月8日、米国など48カ国と日本が米サンフランシスコで署名した講和条約だ。その中にブラジルも入っている。
 それが52年4月28日に発効して、《連合国日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退》との条項により、連合国による日本占領が法的に終わった。つまり、これによって日本は主権を取り戻し、独立を回復した。だから、本土では一般的に良い意味で語られる。
 同時に、この条約によって沖縄や小笠原諸島、奄美群島は、米国の施政下に残ることになった。つまり、沖縄側からすれば「捨てられた」ことになる。同じ歴史的出来事でも、どちらの側に立つかで、祝いの日にも、屈辱の日にもなるわけだ。

▼米国支配への対抗運動の中軸担った青年団

サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団([Public domain])

サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団([Public domain])

 熊本大学学術リポジトリにある同教授の論文「沖縄の青年団運動と米軍基地」(2014年)には、こんな一節がある。《日本が独立し、本土ではもう戦争は終わったという言葉が聞かれ始めた頃、沖縄では、島ぐるみの軍用地接収反対運動に立ち上がっていた。占領後10年にしてはじめて、米軍支配に対峙する全島規模での民衆闘争の登場であった》(116~117P)。その米軍支配反対の島ぐるみ闘争の象徴的な事件の一つが「伊佐浜闘争」だった。
 その詳細は、昨年3月14日から5回連載した『銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民』(山縣陸人記者)にある。突然米軍が現れて銃剣とブルドーザーで、先祖伝来の美田から追い立てられ、島ぐるみの支援を受けながら闘争したが、有無を言わせず接収された。その結果、ブラジルへ移住することを選んだ人たちの証言を集めた連載だった。

青年運動を支えた機関紙「沖縄青年」(山城教授提供)

青年運動を支えた機関紙「沖縄青年」(山城教授提供)

 そんな基地反対闘争や祖国復帰運動という米国支配に対抗する運動の中軸の一翼をになったのが、「青年運動」だった。地域の若者が集まって青年会(団)を結成し、身の回りの課題から沖縄全体の問題までを話し合う場だった。就職紹介、労働争議、アイデンティティの問題などを解決すべく協力しあった。この青年会がまとまった連合組織として、1948年12月に「沖縄青年連合会」が結成され、昨年12月に70周年を祝った。
 この連合会が中軸となって本土復帰運動が行われると同時に、55年に産業開発青年隊を発足させ、南北米に約400人、うちブラジルに300人を送り込んだ。島に残った若者は復帰運動に邁進し、米軍支配に憤懣やるかたなさを感じた元気の良い青年は島を飛び出て、ブラジルへ渡った。

▼村の海岸でバカ騒ぎする米軍に怒り心頭

 終戦当時は、呼び寄せ以外では海外移住が難しかった時代だ。青年にとっては、単独でブラジルへ移住できる青年隊制度に希望を託すしかなかった。子供時代に激しい沖縄戦を経験し、米軍占領下で島の未来を憂慮していた青年会リーダーや古典芸能をやっていた青年の多くが、こぞって半年間の研修を受けたという。
 同青年隊相談役の山城勇さんは、「沖縄は地上戦でものすごい犠牲を被った。毎週末、私の村の前の海岸に米軍が遊びに来て、バカ騒ぎしていた。その姿を見て、癪に触って仕方なかった。島にいたら未来がないと思った。青年隊3次までを本部の役員として送り出し、私自身4次として渡伯した」と来伯した経緯を説明した。
 沖縄を蹂躙した米兵が毎週末、村の海岸で楽しそうに我が物顔に振る舞っているのを放っておかざるを得ない。そんな状況に我慢ならないものがあった。
 本紙取材に対し、山城教授は「当時のリーダー的人材の多くをブラジルに送った。養成を受けた人は700人いますが、そのうちブラジルに来たのは300人だけ。半分以上はダメだった。選ばれた人材がやってきた。沖縄はその分、優秀な人材を失ってしまったと言っていい。当時は本当に不景気で、本土復帰など夢のまた夢。元気な青年ほど海外に夢を求めた。花嫁移民として女子青年も10数人きていますよ」と説明した。

今年1月26日に開催された、在伯沖縄青年協会(知念直義会長)の定期総会・新年会の記念写真

今年1月26日に開催された、在伯沖縄青年協会(知念直義会長)の定期総会・新年会の記念写真

▼戦前一世と二世の間に入る選ばれた青年たち

 渡伯後、青年隊員は受け入れ先農家で2年間の契約労働をした後独立し、多くは子供の教育を考えて都会に移り、フェイランテなどの商業を始めた。そこで青年運動を展開し、スポーツ大会などを通して同じ年代の二世世代と仲良くなり、二世の妻をめとる人も多かった。
 その結果、「300人もの大勢の若者が、考え方の違いから対立しがちな戦前一世と二世の間に入って融和・統合を進める役割を果たし、さらに沖縄文化継承を可能にした」という。
 山城教授は「年齢と関係なく、皆さんは死ぬまで青年隊、生涯青年隊です」と締めくくると大きな拍手が湧いた。たしかにその通りかもしれない。
 ちなみに本土の「南米産業開発青年隊」は、沖縄以外の全県から326人がブラジルに渡った。沖縄は農業技術が中心の研修。本土は土木や建築技術で、女子隊員はいなかった。本土の青年隊研修制度はもうなくなってしまったが、沖縄では続いている。同じ「青年隊」の名を冠しても、地域差があるのは実に興味深い。だが日系社会において、共に重要な役割を果たしてきた点は共通していると言えそうだ。(深)