戦時中のアメリカ本土の二世は、『アメリカ人として国のために戦ってもいい。でも、それなら自分たちをちゃんとアメリカ人として扱い、家族を強制収容所から出して、元の生活に戻してくれ』と反論した。ロッキーさんは「強制収容は憲法違反だと訴え、逆に逮捕されたりしています。その訴えが認められるのは、なんと40年後なんですよ」と嘆いた。
日系二世弁護士・安井稔(ミノル)氏は大戦期の日系人の強制収容の不当性を訴える裁判を起こしたが、逆に有罪判決を下された。ようやくそれが覆ったのは、なんと86年のことだった。やはり日系人強制収容に抵抗した二世・平林潔ゴードン氏も大戦中に有罪宣告され、87年に覆った。これら北米日系人の不屈の闘魂には、日系ブラジル人も大いに学ぶべき点があると痛感した。
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強制収容に関して一行の一人、元県連会長の本橋幹久さんは「ブラジルでも戦争中にサントスから6500人が強制立退きさせられた。似たようなことが起きていたたんですよ」とコメントすると、ロッキーさんは少し驚いたようだった。
1943年7月、敵性移民とされた日本移民やドイツ移民とその子孫6500人が24時間以内の強制立退きの目に遭った。サントスはブラジル海軍の軍事拠点であり、ドイツのUボートが出没してブラジル商船や米国商船を沈没させる被害が出ていた。数百人のドイツ系も含まれるが、大半は日本移民とその子孫であり、あまりに人数が多かったイタリア系はそのままにされた。
ブラジルの場合、大戦時に港湾都市サントスはサンパウロ州内でサンパウロ市に次ぐ大都市で16万人の人口を数えた。そこから日本移民・日系ブラジル人を強制退去させても町の機能は維持された。だが同じく海岸地帯にあったレジストロからは退去させられなかった。
レジストロは日本人が作った植民地から始まった町であり、人口の大半が日本人・日系人であり、彼ら無くして町が成り立たない現実があったために、退去を免れたと見られる。つまり、ハワイと同じ状況だ。
『Prisioneiros da Guerra(戦争の囚人)―ブラジルの強制収容所の枢軸国人たち』(Humanitas社刊、2009年)の著書のあるサンカエターノ・ド・スル市立大学(USCS)で歴史学を教えるプリシーラ・フェレイラ・ペラッツォ教授に以前インタビューした時、「バストスなどのブラジル拓殖株式会社が作った移住地は、数千人の日系人が集住していたから、そこからの出入りを警察が徹底管理を徹底することで、『事実上の強制収容所』として機能していた」と分析していた。
ペラッツォ教授によれば、ヴァルガス独裁政権は1942年1月に連合国側に付く事を決め、米国の指示に従って枢軸国移民の扱いを厳しくし、各コミュニティの指導者を強制収容した。リオのフローレス島、イーリャ・グランデの刑務所を筆頭に全10カ所に集め、うちリオ以南が8カ所を占めた。つまり、日本移民が集中するサンパウロ州、イタリア移民やドイツ系が多い南部3州だ。(つづく、深沢正雪記者)