「オヤジはブラジルに死にに来たようなもんだった」―4月11日の夕食時、サントスから一行に参加した鶴田千里さん(70、鹿児島県)夫妻と一緒になり、いきなり、そんなショッキングな言葉を聞いた。鶴田さんは1960年、親に連れられて11歳の時に移住し、3年後に父親は病気で亡くなったという。
「母は僕ら兄弟4人を育てるために孤軍奮闘した。オザスコでパタタ生産、リオ・グランデ・ダ・セーラの養鶏場で働いたり、フェイラの野菜売り、卵売りもした。ロンドニア州でガリンペイロまで3年間やった。いったん喧嘩したら殺されないためには、殺すしかないようなキチガイのような世界。そこで3回マラリアに罹った。そんなこんなでお金を貯めてセアザで野菜のボックスを買った」という波乱万丈な人生を歩んでいる。
「息子がカリフォルニア州のサンジエゴ(ロスに次ぐ州内2番目の大都市)に留学し、そこでハンバーガーに目覚め、自分で店をやりたいというんですよ。マックやバーガーキングと競争になるでしょ。それなら200グラムの挽肉の特別なやつで勝負しようとボクがアイデアを出した。03年にサントスのショッピング(Rockabilly Burger – Praiamar Shopping)に出店して、今では4店に増えている。ポルキロのお店を入れれば5店経営している」とのこと。
携帯電話をとりだして何か操作をしたと思ったら、画面にはサントスにあるハンバーガー店の生映像が映った。防犯カメラの映像がインターネット通して、携帯電話で見られるという。鶴田さんは「こうやってアメリカまで旅行に来ていても、ちゃんと仕事しているよ」と笑った。すごい時代になったものだ。
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ブラジル最南端の南大河州都ポルト・アレグレから参加した和田好司(よしじ、79)・恵子(71)夫妻さんも変り種だ。好司さんは神戸出身で早稲田大学の海外移住研究会に所属、1962年にあるぜんちな丸第12次航で初めて渡伯した。「あの時にロスで一時下船して、ハイウッド・サインを見たのを覚えてますよ」と振りかえる。同サインは、ハリウッド地区の小高い山の上に設置された「Hollywood」と書かれた看板のことだ。
和田さんは2年程でいったん帰国して新聞配達しながら大学卒業。「最後に、学移連の仲間の谷広海(故人)と早慶戦を見に行った。その時に外野席で知り合ったのが最初の女房。女房の親に反対されて『ブラジルとオレに人生をかけろ』って口説いた」という熱烈な青春を送った。
「ブラジルに出発する直前、当時の人気テレビ『テレビで結婚』に最初の女房と出演して、司会の中村メイコが仲人役となって結婚したんです。週刊誌にも出たりして日本を騒がせて移住した」という。なんとも華々しいブラジル出発だ。
丸紅ブラジル社のポルト・アレグレ出張所長を21年間務めた後、現在は個人商店「さわやか商会」を経営。最初の奥さんとは10年ほどで離婚、現在の妻・恵子さんとは結婚45年になる。(つづく、深沢正雪記者)