桑港にある現役日本人墓地
翌4月15日、一行は有名な金門橋やツインピークスを観光。一行の磯順代さん(いそ・じゅんよ、80、福島県)は、第50回を数える故郷巡りの第13回からほぼ全回参加している最古参。印象に残る訪問地を尋ねると、「マリンガーの和順会を訪ねた時、赤土(テラ・ロッシャ)がツルツル滑って流産した赤ちゃんがたくさんいると聞いて、あーって思ったわ」と思い出す。
「こんなところにまで来て無縁仏になって無念だろうなという人に手を合わせる。そんな先人の法要をして歩くのが本来の故郷巡り。観光が多くなって変わっちゃった感じがする」。
でも、マンザナー強制収容所での法要には満足した様子。「私も6歳の頃、満州の吉林から引き揚げた。ロシア軍が来るかもと、長屋三軒、壁をくりぬいて逃げ道を作っていたわ。でも強盗に入られて、男は後ろ手に縛られ、伯父さんの一人は撃たれて即死した。私は怖くて父の背中にビッタリくっついていたから、叔父さんがウーンで唸って倒れたのしか分からなかった。冬だった。棺を見つけて火葬した。背負えるだけ荷物を持って日本へ引き揚げた。私はリュック一つだけ。マンザナーに連れて来られた人たちも、きっと家財を捨てて、同じ様な想いをしたのでは」。
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4月15日(月)、サンフランシスコ市郊外にあるコルマ日本人共同墓地を見学した。ここに咸臨丸で来た水夫も葬られているという。最初に米国に骨を埋めた日本人ではないか。
入口左門には「日本人共同墓地」、右門には「明治30年建立」とある。江戸時代末期にやってきた咸臨丸の水夫の墓があるにしては新しいなと思っていたら、かつて桑港にあった墓地を全てここに集めたのだという。
門を入ると、思いのほかキリスト教式の墓が少なく、仏式が多い。左側に立派な納骨堂と歴代住職の記念碑、右側に尖塔のような「馬鈴薯王」牛島謹爾の墓、正面右側奥に咸臨丸の3人の墓があった。
咸臨丸は1860年2月10日にサンフランシスコに到着した。38日間で8573キロを渡る大航海であり、日本人最初の太平洋横断だった。だが、浦賀出港後に荒天に見舞われて艦の各所が破損、日本人乗員は疲労困憊と船酔いで行動不可能な状況に陥り、艦運行は技術アドバイザーとして乗船していたアメリカ人乗員が代行したという。
そんな航海で衰弱した水夫3人、源之助(25歳、讃岐国塩飽広島青木浦出身)で3月22日、富蔵(27歳、讃岐国塩飽佐柳島出身)は3月30日に死去し、この両名の墓は艦長だった勝海舟の名によって建立された。
その後、最後の峯吉(長崎出身)は、咸臨丸がサンフランシスコを離れた後の5月20日に死去した。当時日本の代理領事チャールズ・ウオルコット・ブロックスが幕府の命によって峯吉の墓石を建立したという。(つづく、深沢正雪記者)