そして、ブラジル人やヨーロッパ系移民はこのような発音を嘲笑して、日本人を「ジャポン」と呼んだ。こうした呼び方が広まるうちに、皮肉をまじえて、なかには横柄に、命令的な話し方をするものもあった。
「ジャポン、こっちにこい!」
と横柄な口をきいた。
正輝はこうした口調に、何度も邪険に答えなかった。口げんかを避けようと自重したのだ。そのような扱いに不満を表していたが、しかし、口げんかなど何の役にも立たないことも知っていた。
こんな嫌がらせは貧しい農村の人間によることが多かった。日本人をからかいはしたが、彼らには悪意がなかった。日本人が腹を立てると、場違いなポルトガル語を使って憤ることが面白く、またおかしいのだった。日本人は変わった人種でおもしろい。それ以外の何物でもない。
そのうち、少しずつ、日本人が住んでいない地方でも、日本の移民政策というものを疑問視するようになった。日本移民が急激に増加した1920年半ばからサンパウロの奥地では植民地がふえ、なかには日本人だけで形成された村も出てきた。勤勉さゆえに生産性も高く、また他地方で苦しんでいた日本人も随行するように集まってきた。言葉、異なる習慣や食べ物を相互扶助するという形で集団地が形成されたのだ。なかにはカボクロの雇用に及ぼす危険性、あるいはブラジル人の人種の質を変えてしまうのではないかと考え、正輝、その家族、仲間たちまで危険視するよになった。
これはべつに新しい問題ではない。1923年、ブラジルへの日本移民が顕著になる前、つまり、日本政府がかなりの助成金を出すようになる前から、ミナス州議員のフィデリス・レイスによって、州議会に提案された移民法には黒人、黄色人種の入国阻止案が提起されていた。これは単に移民の国内の土地侵略を防止するのが目的ではない。移民がもたらす長期間にわたる影響を見極める必要がある。ブラジル人の人種構成に大きな影響を与えかねないというのが草案の提出理由となっている。
結局、草案は農務、産業、財務のそれぞれの委員会から却下され、議会にかけられることはなかった。しかし、農務委員会に発表されたジョン・デ・ファリア議員の報告書にはブラジルの日本移民の存在をよく検討し、考慮すべきだとはっきり書かれていた。農村のカボクロや日雇い人のように知識の浅いごく普通のブラジル人ではないれっきとした国会議員の意見だった。議員は日本移民の入国を拒否する理由を次のようにならべていた。
まず、日本人は非常に勤勉な労働者であるが、コーヒー園に留まらない。契約を無視して、逃亡する。彼らだけの集団を作り、孤立する。ジョン・デ・ファリアの論究は単にそれだけには留まらなかった。報告書には日本人の話し方は理解できない。風変わりな習慣をもち、体格は貧弱で、倫理的感覚が異なり、ゆえに、契約を無視する。
散らかった家に住み、床に寝、男女が混浴する。その上、豚、鶏、乳牛を飼うことを好まず、ラバを購入することもない。手にした金は集団生活を営む所有地のために使う。下等な人種といえる。「ブラジルはすでに黒人との混血で多大な犠牲を余儀なくされた。同じ様なまちがいは避けるべきだ」スペイン、イタリア移民はブラジルに順応する能力があり、それぞれの地に落ち着いた。ゆえに、無条件で入国することができる。