ホーム | コラム | 特別寄稿 | アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(4)

アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(4)

まにら丸の偉容

南米拓殖発足

 1928年8月11日、創立総会を開き資本金1千万円の南米拓殖株式会社が設立された。鐘紡が主な出資先で、一般株主の総数は5422人を数え、南拓の取締役(社長)には、鐘紡重役だった福原八郎が就任した。
 南拓の設立目的は、日本の将来の人口増加を見込んでの食糧供給基地の確保で、10か年計画で1万戸(各戸25町歩割当)の植民計画を作っていた。福原八郎は、創立総会を見届けるとすぐに五反田貴巳、新井高次、友田金蔵の3名を伴い、8月23日横浜から船でブラジルへと向かい10月7日にベレン港へ到着した。
 この後、パラー州側との折衝を経て南拓の現地法人「ブラジル農耕日本会社(Compania Nipponica de Plantações do Brasil)を、1929年1月25日に設立している。(登記所への登記は1月10日、15日州官報に公告掲載)。
 南拓ベレンの事務所は、カンポス・サーレス街のマルチンス書籍店の2階に在ったが日本人移民の到着する1929年7月に、ベレンの砲台前広場に面した立派な建物、現在の11 de Janelas美術館の2階に移った。
 この施設は、18世紀の中頃、砂糖工場(エンジェーニョ)主のドミンゴス・ダ・コースタ・バルセラルの邸宅として建設されたものである。1768年には、州の病院(Hospital Real)として1870年まで使用されている。
 その後、建物は様々な用途に使用され1929年、南拓もこの施設内の一角を借り受けていたのだ。因みにその後、陸軍の施設となり2002年から現在の州美術館へと衣替えしている。
 余談になるが、建物がまだ軍の施設だった時代、北伯日系社会の生き字引的な存在であった大嶽一氏(2009年97歳で逝去)の案内で筆者は、そこを一度訪れた事がある。
 「堤さん、南拓の事務所だった所でコンデ・コマさんも働いていた場所知ってますか? 一度、見に行きませんか」と、願ってもない言葉を掛けられ「ぜひ連れて行ってください!」と、即座に返答し案内を乞うた。
 建物の正面に、立哨の兵隊がおり「戦前、この建物内に日本人移民を取り扱う日本の会社が在ったのだが見学させてもらいたい」と、訪問の用件を言ったのだが、「軍の施設に民間人は許可なく入れない」と、けんもほろろの応対で断られてしまった。
 それなら、せめて建物の写真だけでも撮ろうとカメラを向けると「ノンポージ!」と、えらい剣幕で叱責されてしまった。
 こちらもむかっ腹が立ち「なんだ貴方らは、日本人の会社の建物を戦争中に接収しているくせに」と、言い返した。本当は、そうではないのだがどうせ相手は何も分からないだろうと踏んだ訳である。
 兵隊さんは一瞬「え!」と言う顔をして黙りこんだ所へ「それなら、上の人に頼んで許可くらいはもらってきてくれないか」と、こちらも粘って交渉していると、たまたまそこへ通りかかったのが日系の少尉さんであった。
 話をするとこの少尉さんは、アマゾン河の中流地帯パリンチンスへ戦前入植した高拓生の息子で、大嶽さんが彼の父親を知っていたのが判明した。
 と、言う事で話がトントン拍子に進み我々は建物の中を隅々まで案内してもらった思い出がある。今は、美術館になっているので誰でも中に入れるが。
 日本国はこの当時、第一次世界大戦後に始まった不況の余波を受けた上に、1923年の関東大震災、1927年に始まる金融恐慌そして1929年の世界恐慌を経て1930年の昭和恐慌へと暗い時代を歩んでいた。
 また、米国に起こった排日運動は、その後ブラジルにも飛び火し、日本国は経済疲弊の打開策の一つである外国への日本国民送出にも大きな壁を感じていたのだ。
 紙面の都合で今号はこの辺りにしておくが、次号では排日運動の実態、動き始めたアカラー植民地等を記してみたい。(文責・堤剛太)