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さくらホームの雪割桜に込められた郷愁

桜の木の前で、浴衣姿で記念撮影するコーナーも

 「有名な観光地カンポスの名所の一つとして、桜祭りの時だけでなく、お客さんが年中訪れて入場料収入を落としてくれ、少しでも老人ホームの運営が楽になるようにしたい」―27日、サンパウロ州カンポス・ド・ジョルドン市のさくらホームで桜祭りを取材した際、サンパウロ日伯援護協会(以下、援協)の与儀昭雄会長からそんな言葉を聞き、少し意外に思った。
 桜などの日本的なものを集客の柱にして、ブラジル人観光客を呼ぼうという考え方だ。今年の新年号に《ブラジルを「故郷」にするなら桜を植えよう=郷愁とブラジル日本移民》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190101-81especial.html)を書いたが、桜は最初、一世が郷愁を癒すために植え始めた。今ではそれがブラジル人集客の柱という時代なのだと痛感した。

▼さくらホーム前史

 前述の《ブラジルを「故郷」にするなら桜を植えよう》を要約すれば、こんな話だ。レジストロ在住の二世・島田梅子さんの父・菅野勝見さんは、数年間の出稼ぎ労働をしてお金を持って故郷に帰るつもりでブラジルに渡り、そのまま帰れなくなった。
 戦後、44年ぶりに故郷の土を踏み、「俺は花見をしてからブラジルに帰る」と言い残して、妻を先に帰した。だが本人は満開の桜の下で脳卒中を起こして死んだ。半世紀ぶり、夢にまで見た桜に感激したあまり―だったのかもしれない。
 〝郷愁という病〟を抱えていた戦前移民にとって、桜は故郷そのものだった。
 梅子さんの話を聞いて、サンパウロ市のカルモ公園に桜の植樹を始めた一人、「花咲じじい」と言われた故西谷博さんを取材した時のことを思い出した。〝郷愁という病〟を抱えた戦前移民は、戦後になって「もう日本には帰れない」と覚悟した時、「それならブラジルを『第二の故郷』にしよう。故郷なら桜が咲かなきゃいけない。それなら桜を植えよう。そしてここを故郷にしよう。だから桜を植え続けるんだ」という強い意思だった。
 西谷さんの句集『さくらもり』(07年)によれば、桜をブラジルに根付かせるには苦労した。コロニア最盛期の1978年、日本移民70年祭の機会に桜植樹が始まった。その頃、日本の桜の会から関山桜、大島桜、彼岸桜、天の川など7、8種を送ってもらった。
 《夢を膨らませて暮らす。ただし、2、3年で成長を止めてしまう。雪の降る国から来た桜苗は、やはりコーヒーの国には無理であった。まもなくカンポス・ド・ジョルドンより雪割桜の小さな苗を吉岡さんが買ってこられた。四国出自のこの桜は土地に合い良く育って行った。人に故郷がある如く、桜にもそれがある。四国出自の雪割桜は、今この国で一番、日本の桜に似ていると見る人が言う》(『さくらもり』)。
 カンポスは市所在地としてはブラジルで一番標高が高く、1700メートルもある。そのため比較的に気温が低く「ブラジルのスイス」「熱帯の寒冷地」などと呼ばれる。その気候から、戦前より別荘地、もしくは結核療養地として有名で、サナトリウムが10軒前後も建てられた。その一つが、同仁会が1936年に開設した肺結核療養所「サンフランシスコ・シャビエル療養所」だ。
 『移民四十年史』(香山六郎編著、1949年)によれば、《一九四三年頃より、著しく同仁会の苦悩を増したのは肺結核患者の出聖激増であった。(中略)その後、肺患者は激増する一方で、それ等の患者が直接に救済を同仁会に嘆願し、あるいは総領事館に出頭して救護を哀願する等の始末で、まさに在伯邦人の衛生戦線異状ありと思わせるものがあった。そこで同仁会は、一九三五年度予算外事業として地方巡回班および地方医局費の一部をこれに当て、カンポス・ド・ジョルドンの地に極めて小規模な臨時肺患者収容所を設置、七月よりこれが経営を開始したものである》(399~400頁)とある。
 この小規模な収容所を頼って、「療友会」と称する邦人自治団体が生まれ、《当時、四十名内外の肺患者が共同療養を成しつつあった》(同400頁)とある。
 当時のマセド・ソアレス外務大臣がカンポスに個人所有していた土地があり、35年、市毛総領事らが交渉して無償譲渡してもらい、36年に日本病院付属の名目で本格的な肺結核療養所を建設した。

▼カンポス療養所が生んだコロニアの名曲

 このカンポス療養所は戦争中も活動を続けた。その当時の患者の一人が、勝ち負け抗争の犠牲者となった脇山甚作退役陸軍大佐の息子一郎の妻・初野だった。
 37年にバストス楽団という日系初のジャズバンドを結成し、日米開戦直前に移住地を挙げて取り組んで歌劇「浦島」を成功させたのが一郎だ。脇山甚作は日本精神の権化たる陸軍大佐ではなく、本当はアメリカ音楽を愛するモダンな息子を許す父親だった。一郎がカンポスの初野を見舞うのに、バストスからでは遠すぎることから、脇山家はサンパウロ市サウデ区に移り住んでいた。
 初野が結核に冒され1943年からカンポスで療養をはじめ、それを再々見舞う生活の中で、一郎は歌曲「高原の花」を作詞・作曲した。冷たい風が吹きすさぶ高原にひっそりと咲くスミレの花にあやかって、妻を想う気持ちを託したこの曲は独特の陰影と叙情に包まれていた。しかし、療養の甲斐なく終戦を迎えた直後の8月17日、初野は結核が悪化して他界した。
 終戦後の混乱の中で人心は乱れた。そんな殺伐とした時勢に、少しでも生活に潤いを提供しようと、竹内秀一(元日伯新聞総支配人)は日本の歌謡曲のレコード制作を企画し、一郎の下に持ち込んだ。「内紛で暗いコロニアに明るい新風を入れるには、コロニア唯一の娯楽である歌謡曲のレコードを売り出すことである」(『コロニア芸能史』137頁)と考えたのだ。
 日本との国交が絶えていた時代なので、初めてのコロニア国産レコードだった。当初不可能だと思った一郎は一旦断ったが、最終的には引き受けた。仲間を総動員して試行錯誤を繰り返し、1946年6月2日に第1回目のレコード録音を行った。「コロニアの音楽人の協力によって歌謡曲のレコードが誕生した画期的な瞬間だった」(同137頁)。
 しかしその晩、奇しくも脇山家に4人の勝ち組強硬派の青年が訪れ、父・脇山大佐を殺害した。妻、父を立て続けに喪った一郎は、以来全てを忘れようとするがごとく音楽活動に没入。歌曲『高原の花』は異例の大ヒットとなった。荒んだ世情を潤すヒット・メロディーとして愛され、コロニアを代表する愛唱曲になった。だが一郎も50年6月に自動車事故で他界した。行年40歳の若さ、まるで生き急いだような生涯だった。

 

「高原の花」(1946年 作詞作曲 脇山一郎歌)※サイト「ブラジル移民文庫」より

 

▼9年間で肺患者5千人余りを世話した救済会

 戦争中の1942年から援協が発足するまでの間、事実上、邦人保護を一手に引き受けていたのは「サンパウロ日本人救済会」だ。援協が1959年に発足してから、その重荷の多くを渡し、高齢者福祉に活動を絞って「憩の園」を経営している。そして援協の方は、今年60周年を迎えた。
 その救済会の資料には、終戦後に肺患者を世話した数が記されている。
 戦中から52年までの記録はないが、53年から「肺患者」という項目が立てられ、53年=342人から年々増えて、61年には783人にもなった。このわずか9年間でなんと延べ5346人の肺患者の世話をしている。その重病者はカンポスに送られた。
 ちなみに10年ほど前、コラム子も結核の亜種に罹って治療した際、色々な人から「実は自分も結核になったことがある」と慰められ、体験談を聞かせてもらった。
 その中で意外だった一人が、元サンパウロ州高等裁判所判事の渡部和夫だ。「僕も結核に罹って、カンポスでしばらく療養したよ。あの当時は良い抗結核薬が開発されていなくて、とにかく療養するしかなかった。不安だった。治療と称して、肺を前後から圧迫するというのもやったな」という話を聞いた。
 カンポス療養所で亡くなった人も数限りなくいるが、命を救われた人も多い。コロニア史の一角を支える場所だと改めて感じる。
 ちなみに、60年代に入ると抗結核薬がブラジルでも普及して治療が容易になり、療養所の必要性が下がった。それに伴い、このカンポスの肺結核療養所は1965年から援協の運営となり、81年からは喘息患者の受け入れをし、現在では老人養護施設「さくらホーム」となっている。
 そんな場所だからカンポス療養所には、早くから日本から持ってきた雪割桜が植えられていた。普通、日本から持ってくる種や苗は商品作物だった。桜は違う。郷愁を癒す植物であり、一種の「目で見る精神安定剤」だった。
 オー・ヘンリーの短編小説「最後の一葉」の主人公は「あの葉がすべて落ちたら、自分も死ぬ」と人生に絶望していたが、ここでは「満開の桜を見るまでは死ねない」と思っていたのではないか。
 窓から見える桜が咲くのを心待ちにして、療養していた移民たちがここにはたくさんいた。それゆえに試行錯誤してキレイに咲くように念入りに手入れされ、「さくらホーム」という名称の由来にもなった。
 今回の桜祭りの会場入り口の立派な桜にも、日本語で「雪割桜」と書かれた看板が付けられていた。カンポスの桜祭りはまだ3、4日、10、11日も開催される。
 そこから持ってきた雪割桜が、今ではサンパウロ市民の春の風物詩といえる「カルモ公園の桜祭り」の柱になっている。こちらも8月2日から始まる。移民史を思い浮かべながら、カンポス、カルモと桜巡りをしてみてはいかが。(敬称略、深)


カンポス・ド・ジョルドン略史=結核療養所から「ブラジルのスイス」へ

西洋風の街並みがある観光街

 「ブラジルのスイス」―サンパウロ市から173キロ、リオやミナスとの州境のマンチケイラ山脈の標高1628メートル地点にあり、都市所在地としては最も標高が高い。
 冷涼な高原都市カンポス・ド・ジョルドン市の人口は4万7千人。年間の平均気温は14度、真夏でも平均気温は22度以下と涼しい。かといって真冬でも雪が降ることはまれだ。
 元々はインディオ集落だったが、ポルトガル系子孫の開拓者らが森林を切り開き、土地争いを繰り返した。彼らは結局マヌエル・ロドリゲス・ド・ジョルドンに売ったことから、「Campos do Jordao(ジョルドンの土地)」と呼ばれることになった。
 徐々に人口が増えて1915年にサンベント・ド・サプカイ市の区となり、この頃から結核療養所があちこちに建設され始めた。1934年に市制施行となり、「カンポス・ド・ジョルドン市」として独立した。1950年代には医学の進歩で良い結核治療薬が開発され、療養所が必要なくなった。

町の入り口

 そこで涼しい気候が欧州を連想させることから、「ブラジルのスイス」として売り出し、現在のように観光都市としての名声を獲得した。南伯には欧州移民の植民地として始まった町グラマード、トレース・チーリャス、オクトーベルフェスト(ビール祭り)で有名なブルメナウなどがあるが、ここは違う。
 セントロのカピバリ広場(Praca do capivari)周辺には、ドイツ風家屋をベースに、欧州風の建物が観光街には立ち並ぶ。チョコレート工房があちこちにあり、チーズフォンデュが名物。1999年に4人が始めた地ビール「バーデン・バーデン」(Baden Baden)は爆発的にヒットした。苦みのある黒ビールをベースとし、14以上の国際ビール品評会で賞をえるまでになった。

有名なバーデンバーデンの建物

 1970年からは「カンポス・ド・ジョルドン冬まつり」(Festival de Inverno de Campos do Jordao)が始まり、今年ちょうど50周年を迎え、この6月29日から7月28日にまで開催されていた。ラテン・アメリカ最大のクラシック音楽の祭典といわれ、各地の管弦楽団に加え、有名なミュージシャンが集まり、カピバリ広場などでコンサートを繰り広げる。

「高原」の名物鱒料理

サーモンのようなトゥルッタ・サルモナーダの刺身

 観光地に必要なのは名物料理だ。その点、ここには州立鱒試験場があり、豊富かつ多様な種類が提供されており、それを使った料理が名物になっている。
 お薦めは日本食レストラン「高原」(Trav. Isola Orsi, 47, Capivari、電話12・3663・1914)。中でも「トゥルッタ・サルモナーダ(truta-salmonada)の刺身」は珍しい。川魚だが、試験場という徹底管理されたところから供給されるから、安心して生でも食べられる。鱒といえば白身だが、名前通り「紅鮭風」の赤身になっているのが特徴。

鱒の蒸し焼き

 日本ではほとんど馴染のない種類。喉の部分が赤くなることから、英語で「Coastal cutthroat trout」と呼ばれ、それを意訳して「ノドキリマス」と呼ばれる。とはいえ、鮭と鱒は、実は元々非常に近い系統だ。鮭は川で生まれて海で育つが、鱒はそのまま川で一生を終える点が最も異なる。
 「高原」では刺身の他に、「鱒の焼き飯」というオリジナル・メニューもある。鱒がたくさん入った甘味があって、スパイシーな味わい深い一品。また「鱒の蒸し焼き」は丸ごと1尾が入っており、2、3人で食べられるボリュームだ。たまには、 「ブラジルのスイス」で鱒料理もいいかも。