日本政府からの返答を得られず、アメリカのトルーマン大統領は秘密に開発してきた爆弾の投下を許可した。沖縄での戦闘を今後くり返せば、100万人以上のアメリカ兵が犠牲となると考えて、日本本土への攻撃に対し「日本の端から端までを沖縄戦のような目に合わせたくない」といったそうだ。
1945年8月6日、午前2時45分、ポール・W・チベッツ大佐が操縦する空飛ぶ要塞と呼ばれ、母親の名にちなんでエノラ・ゲイと名づけられたB―29がマリアナ諸島のテニアン基地から広島に向けて離陸した。飛行は安全そのものだったといわれる。日本の空軍はすでに機能を失っていたからエノラ・ゲイには護衛機もついていなかった。高度飛行が可能で、日本軍の上空監視区域に入ることはなかった。だから、作戦が成果をおさめるのを記録するためもう1機のB―29が随行しているだけだった。
マリアナ諸島を立って5時間30分後、チベッツは任務に着手した。高度の位置から広島に向けて原爆を投下した。エノラ・ゲイは素早く進路を変え、南に大きく円を画きながら基地に向った。その際、乗組員たちは指示されていたとおり、そのために開発されていた眼鏡で原爆投下後の成り行きをみたのだった。
猛烈な光りのあと、白い煙が立ち上り、それがどんどん周辺にひろがり、またたくまに、キノコの形を画いた。その高さはエノラ・ゲイが飛行していた1万メートル近くに達していた。ちょうど午後2時58分、チベッツが操縦していた戦闘機がテニアン基地に着陸したとき、その役割を終えた。作戦は12時間13分かかったが、その間エノラ・ゲイは一度も給油しなかった。驚くほど長時間飛びつづけることができたのだ。
にもかかわらず、日本はなお連合国の最終通告を受けなかったので、9日には長崎に原爆が投下された。
これら2発の原子爆弾の被害は最悪だった。しかし、それでも、沖縄での死者のほうが数において多かったのだ。8月9日の午前0時、緊急御前会議が開かれ、天皇は今後も、政治的至上権を維持できることを条件に降伏を決断した。この条件は連合軍に渡すよう東京にいたスイスの代表者に伝えられた。
交渉は8月14日までつづけられ、天皇は歴史上はじめて、ラジオ放送により国民に直接声をかけられた。それまで、国民は天皇の前で目を上げることもできず、その声を耳にすることなど考えも及ばないことだった。天皇は連合軍から課された条件を受け入れる決意を話された。1945年9月2日、東京湾に停船していた戦艦ミズーリーの船上で、日本の降伏文書調印が行われた。ただちに、ダグラス・マッカーサー元帥の指揮するアメリカ軍が日本の領土に上陸していた。
第8章 堕ちた臣民
枢軸国となった国からの移民はいろいろ検閲されることになり、正確な情報が入手できずにいた。祖国の輝かしい戦勝ニュースだけを耳にしていたブラジル在住の日本人は、日本の敗戦ニュースを敵の広報、偽の情報と考えた。移民の大多数は祖国日本は戦争に勝ち、ブラジル人はアメリカ人と結託してそれを公けに認めないだけだと思ったのだ。敗戦後しばらくは、非常識に道をはずしたこれら集団にとっては、敗戦などたわ言に過ぎなかったのだ。