警察は他にも秘密あるいは不法団体が存在することを知ったが、多くの情報を得ることはできなかった。そのなかにアルバレス・マッシャドやプレジデンテ・プルデンテ付近に存在する「愛国連合日本人会」があった。また、「愛国同心会」もあったが、その会についてはDOPS局長はなにもふれていない。
その他、協同組合員を国粋主義にしたて、勝ち組にとりこもうとする「忠道会」、青年を団結させるための「国粋青年団」、さらに間宮、鈴木技師が正式団体として承認を願い出た「共栄協会」がある。ちなみに、邦人社会の自由主義者を脅迫した過激主義者として、前記二名はすでに秘密警察に名が挙がっていた。また、邦人社会の婦人たちをあつめ、パンフレットを配布したり、討論会を開いたり、他の日系団体との交流を図るための「愛国婦人会」もあった。
この婦人会のリーダーは「過激国際主義者、日本勝利を唱える扇動者」とよばれる佐藤正信夫人だった。佐藤氏は日本でも国粋主義者として知られ、日本の有名な政治家の縁戚にあたり、その筋の知人も多かったといわれる。
これ以外に1944年2月、結社「興道社」が結成されている。この組織はソロカバナ線パラグァス・パウリスタで以前結成された「赤誠団」が加入して生まれた団体だ。「赤誠団」の創立者はサンパウロで退役陸軍中佐吉川順治氏を訪れ、団体の支持を依頼している。
当時、吉川氏を含めた退役軍人たちはブラジルの同胞たちが「臣道」の意義を忘れることを憂慮していた。そこで、日本精神を高揚させ、天皇の民としての義務を力説する組織を作ろうとした。彼らの意向が一致し、1944年2月はじめ「興道社」の結成となったわけだ。
不法組織なので、サンパウロの中心地、ドン・ペドロ広場の178番に雑貨屋「カーザ・パウリスタ」という名の看板をかかげた。そこを拠点にこの組織は移民たちの間で最も強いリーダーシップをもつ「臣道聯盟」という名で世に知られるようになった。創立者は「興道社」を支持した退役陸軍中佐吉川氏で、運営者の一人にあの沖縄出身の几帳面な渡真利氏があたっていた。
吉川順治(父吉川げんしゅん、母イオ)は1877年、新潟で生まれた。戦争終末時、68歳だったことになる。渡伯したのは帝国陸軍を中佐で退役した1935年だった。退役の理由に健康上の問題(視力の衰え)をあげている。中佐として、大学卒業者同等の学歴があった。ビラマリアーナ区、ヴェルゲイロ街3427番で洗濯業を営んでいた。1944年9月から1945年11月17日まで、サンパウロの留置所にいた。理由は戦時中日本人に対し、生産活動の妨害をした罪だった。彼の言い分では日本にとって利敵作物を栽培していたからとのことだ。
渡真利成一(父・渡真利まひ、母・カマ)は正輝より一歳三ヵ月年下だった。1906年2月25日に沖縄で生まれた。取調べにあたった警官は彼について蔬菜栽培者だとしている。枢軸国生まれの外国人に必要な通過許可証には行商人と書かれていた。実際は機械を購入して帽子をつくり、それを売り歩いていた。帽子の販売を口実に、日本人の住む奥地を廻り、組織へのメンバーを勧誘していたのだ。サンパウロ市のメルセーデス街22番に住んでいた。取り調べに対し、自分は小学校しか出ていないといったが、その筆跡、文章、通信文などからみて、学歴の高さが窺えた。