▼アマゾン地方と日本人とのつながり
ところで、日本人移民が入植するまでアマゾン地方に日本人は誰も居住していなかったのだろうか?
実は、1929年第1回アマゾン日本移民が入植した年には、同地方にすでに150名ほどの日本人達が居住していた記録が残っている。
これらの多くは「ペルー下り」の人たちであった。ペルー下りとは、ペルー国へ移民した人達が、配耕先を逃亡してアンデスの山を越え、ブラジル側のアマゾン地方へと入ってきた人達の事を指す言葉である。
ペルー国への移民は1899(明治32)年、ブラジル移民に先立つ9年前に開始されている。790名の第1回ペルー移民は、7カ所の耕地に配耕されて行ったが、上陸から52日後には紛糾の火の手が各耕地で発生し、ペルー到着から4ヵ月後には移民会社(森岡商店)の在ったカヤオに321名の脱耕者達が集まってきている。
この脱耕の主な原因は、やはり耕地での奴隷同然の待遇であろう。その上、マラリアや黄熱病も追い討ちをかけるように蔓延し、最初の1年間で143名もの犠牲者を出している。それでも、ペルー国への日本人移民は中止されることなく次々に母国から送出されてきている。
耕地を逃げ出した移民たちの主な逃亡先は、ゴムブームに湧くアマゾン地方であった。ロンドニア、アクレー、アマゾニアそしてパラーへと、これらペルー下りの日本人達は定住の地を求めて移動して行った。
ベレンの町に最初に居住したペルー下りの日本人は、1916年(大正5)頃で宮城県人の高橋庄助であった。その頃、川本清八、イト夫妻も市内に居住していた。川本夫妻は、3千メートル級のアンデス山脈を馬に荷を積み、徒歩で1カ月ほど掛けて越えボリビアへ抜け、そこからブラジル領のアクレーへ入り、ここから筏を組み、アマゾナス州へ移動した。
マナウスから船でベレンへと渡ってくるまでに、7年間もの歳月を費やしていたのだ。川本夫妻は、ベレン市内から近郊のタパナンへと移り、この地を永住の地とし、長らく野菜栽培で生計を立てていた。
イトさんが亡くなったのは1991年9月、95歳の生涯であった。この他、同じくベレン市内に居た江口保治、西原吉助、本郷勇等はアカラーでの開拓事業が開始されると、福原八郎に請われ、南拓移民会社の仕事に雇われている。ペルー下りの子孫は、今でもアマゾン地方の各州に存在する。何代にもわたり、混血が行われている事から外見での日系人の特色はほとんど無く、その日本の苗字でかろうじて日系で有る事が証明される。
ベレンの町には、異色の人物が居住していた。ブラジリアン柔術の生みの親で「コンデ・コマ」こと前田光世である。前田は、講道館柔道の猛者で異種格闘技での戦いを世界各地で繰り広げ、1915年(大正4)に同じ講道館の佐竹信四郎共々ベレン入りしている。
その後、佐竹はマナウスに活躍の場を求め、同地へ定住。前田はベレンを選び、1941年市内の自宅でその生涯を終えている。1926年5月、福原調査団がベレン港へ到着した際、パラー州側の要人と伴に桟橋で福原一行を出迎え、その晩年は日本人移民の事業にも深く関わっている。
ちなみに、アマゾン地方へ初めて足を踏み入れた日本人について記してみよう。これまで、1890(明治23)年にシルコ・インペリアル・ジャポネス(日本帝国サーカス)」を引き連れマナウスの町で興行した、竹沢萬次郎という人物が最も古い記録かと思われていた。
ところが、それより4 年前の1886(明治19)年11月7日付ジアリオ・ド・グランパラー紙に、「ナザレー祭り(注・ベレンの宗教祭)に日本人等がやってきて花火を打ち上げる」と、言う記事が有った。日本と言う国は、当時のベレン市民には馴染みがなかったのか「中国の近く」と、注釈までつけてある。
僅か数行の記事だが、この日本人とは一体何者だろうか? しかも、製造した花火をベレンへと船に積み込み運んで来たのだろうが、どこでそんな物を作ったのだろうか? ブラジルへの日本人先駆者の一人である、鈴木貞次郎(南樹)が著した『埋もれ行く拓人の足跡』という本が有る。
この本の中に、移住前史の時代にブラジルに居住していた日本人が紹介されている。軽業師だった竹沢萬次郎の名前は出てくるが、花火を扱うこの謎の人物については何も記されていない。アマゾンは、1885年以降ゴムブームで湧いていた。もしかすると、そんなアマゾンを舞台にひと儲けしようとヨーロッパや米国経由の船でアマゾンに乗り込んできた人物だったのかもしれない。
▼粗製乱造の戦後移住地
第2次世界大戦終了後、ブラジルへの日本人移民が再開されたのは1952(昭和27)年に入ってからである。この年の12月28日、戦後第1回ブラジル計画移民17家族54人が、さんとす丸で神戸港を出航し、入植先のアマゾンを目指した。戦前のブラジル移民は、1941(昭和16)年5月のぶえのすあいれす丸が最終船だったので実に、11年7カ月ぶりの日本からの移民送出であった。
このさんとす丸は、西回りの長い航海であった。シンガポール、アフリカを経由してリオデジャネイロへ入港したのは翌年(1953)2月11日。ここで、移民達は「さんとす丸」から下船し、同地の移民収容所へ入所。アマゾンへ向かうブラジル国内船「カンポス・サーレス号」への乗り換えを待った。
「さんとす丸」がリオ港へ到着した日、戦後第1回日本人ブラジル移民実現の立役者とも言える辻小太郎(汎アマゾニア日伯協会創立者)とエリアス・リベイロ・ピント(パラー州ジュッタ栽培者協会)、それに「さんとす丸」の奥山船長らはペトロポリスに在るリオ・ネグロ宮殿を訪れ、ゼツリオ・バルガス大統領に移民到着の報告とその受け入れに対するお礼を行っている。
また同じ頃、「さんとす丸」で入港した日本人移民と入れ替わるようにリオ港を経由してイタリアへと向かう「コンテ・グランデ号」が、ひっそりと桟橋を離れて行った。
この船は、ブラジル移住の夢破れて故国イタリアへ帰国して行く400名の移民達を乗せていた。これらのイタリア移民は、サンパウロ、パラナのコーヒー園で雇用農として働いていたものだが、農園主側と労働条件が折り合わず帰国して行くものであった。イタリア移民達の訴える、農園での劣悪な労働条件とは例えば次のような物であった。
★用意された住居が木造の小屋で、しかも床が土間で粗末過ぎる
★日給が低すぎる
★農園が町から離れすぎて生活がしにくい
★イタリアで聞いてきた仕事の内容と農園での実際の仕事内容が違う―等であった。(1953年2月12日付リオ・ウルチマ・オーラ紙)。
戦後のブラジル日本人移民は、この第1回アマゾン計画移民に続き、この後毎年続々とアマゾンの僻地の入植地へ送りこまれている。これらの日本人移民達が、イタリア移民の帰国理由を知れば、一体何を感じたであろうか。
日本人移民達がこれから向かう新天地は、そのほとんどが人跡未踏の原始林の中で、住居すら自分達の手で作らねばならなかった。一旦入植地へ入ると、イタリア移民の様に故国へ舞い戻る事は叶わず、それこそ、石に噛り付いてでも耐えるしか道はなかったのだ。
2月21日、移民等はカンポス・サーレス号でリオを出航し、パラー州の州都ベレンへと向かった。ベレン到着は、3月7日。日本を出発して早2カ月の時が経過していた。一行は、ベレン港で更に川船に乗り換え、アマゾン河を遡行。中流地帯のパリンチンスへと到着したのは、2週間後の15日であった。日本よりの新来移民が配耕されたこの年、アマゾン河沿岸のジュート(黄麻)栽培地帯は50年来と言われるほどの大増水下にあった。
これが、原因となり大きな問題が発生した。入植僅か13日目で、退耕者が出てしまったのである。戦後再開された初の日本人移民は、日伯両国政府が期待し注目していた特別な移民であった。
この為、この事件は、各方面に大きな反響を呼んだ。アマゾン河の中流地帯に、5千家族2万5千人のジュート栽培者を導入するという上塚司、辻小太郎の構想は、こうして唐突に計画変更を余儀なくされた。
敗戦国の日本本土には当時、外地からの引揚者が700万人ほども溢れかえっていた。日本政府にとって移民事業は、戦災復興の命運をかけた国家的事業であり、ブラジルへの移民送出をこんな事で中断させる訳には行かなかった。
アマゾン地方への日本人移民はその当時、ブラジル政府との間で交わした特許権取得者・辻小太郎が興した移民受け入れ会社「アマゾニア拓植協同組合」(後にアマゾン経済開発株式会社)が取り扱っていた。
辻は、日本から待ったなしで次々に送出されてくる大量の移民を捌くために、アマゾン地方で入植可能な場所が有れば事前調査をする間もなく、その地へと移民達を送り込んでいった。このため、後に様々なトラブルが各移住地で発生している。これら日本人移住地の大半は、入植者達がその地を離れ、今は「消えた移住地」となっている。戦後アマゾン日本人移民は、敗戦の混沌とした特殊な状況下から生み出された、移民の負の歴史と言えるのかもしれない。(終わり)