■わたしは誰か
ブラジルに来たのは誰なのか。ブラジル移民と、その末裔にとって、その問いは、「わたしは誰か」と同義かも知れない。
「移民と日本人」は、ニッケイ新聞の編集局長が、その問いの答を探った労作だ。副題に「ブラジル移民110年の歴史から」とあるが、その前史から国外に出た日本人の歴史を振り返る。
420年前、南米の地を踏んだ日本人がすでにいたという。アルゼンチン初の日本人公式記録は16世紀にさかのぼる。日本人青年が「奴隷として売買されるいわれはない」と裁判を起こして勝訴、自由の身になったとか。
明治日本では「経済的に行き詰まった人」が移民になった。さらにその地域性や属性に目を向けてみると―。〈戊辰戦争や、その後の士族の反乱で疲弊した地域〉が移民送出の舞台だった。そして、〈自由民権運動の流れの様な明治維新に不満を持った人たち〉が旅立った、と指摘する。
■タブーを越えて
部落差別への言及もある。タブーとされ、記録は乏しい。本書でも具体的なデータは示されず、被差別部落にルーツを持つ当事者も登場しない。けれども1917年生まれの移民作家、松井太郎の挿話が印象的だ。
作品の中の人物を「被差別者では」と見抜いた筆者に、晩年の松井が語る。大抵のコロニアに部落出身者がおり、一方で、あら捜しをして陰で差別する者がいた、と。松井は義憤を感じたという。
〈そういうことを言うだけでも恥ずかしいことだと思っている。万民平等のブラジルまで来て、そんなことを言うなと〉〈弱い者に味方して、そういう人を見返すような人物を描きたかった。「一寸の虫にも五分の魂」だ〉
タブーとして温存された差別的な気風への抵抗が本書に記録された。
■移民史の教訓
移民史から何を教訓とすべきか。
わたしのような「在日日本人」にとって、本書の最後に綴られる日本社会への提言が興味深い。例えば日本の教育について。日系二世、三世は、現地の高等教育を受けてブラジルに適応し、忠誠心を強め、優秀なブラジル人になっていったという。
だから、と筆者は指摘する。「移民」を受け入れる日本がすべきは、日本で育つ外国人に日本の高等教育を受けさせることだ。差別する格差環境が維持されれば、外国人は異邦人のままになる。
日本で外国人の受け入れが進み、本当の「共生」が始まれば、在日日本人もまた自問するかもしれない。日本人とは誰か。わたしは誰か。
移民史から、なぜ学ぼうとしないのか。地球の反対側から本書が問いかけている。
(元神戸新聞記者、日系社会青年ボランティア14回生、向日市立寺戸中学校教諭)