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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(3)=早すぎた母との死別と結婚

本紙記者と共に50年ぶりに訪れた、密林の中にある水車小屋跡(2009年撮影)

 山田元さんは、13歳の頃から父義一が作った精米所に通い、水車を回していた。精米は年に千俵。細い体だが、「自慢じゃないけど、あの頃は1人で1俵60キロを担いだんだ」。
 それを馬車に5~6俵積み、3~4時間かけてトメアスー桟橋まで運ぶのを14~15回繰り返し、船に積む。さらに十数時間かけてベレンまで持って行く。米ぬか、もみ殻は畑の肥料へ回し、トマトやキャベツを作った。
 17歳になった時、元さんに人生の転機が訪れた。母親の紹介で、今村豊江との結婚が決まった。豊江は14歳の頃に両親を亡くしており、天涯孤独の身。
 「トメアスーの支配人の家で女中として奉公していた豊江を母が気に入ったんだ。それで『大人しい娘だからあの娘を嫁にもらえ』って」。元さんは当時の状況を思い出し、照れくさそうに笑った。
 母親が勧めた縁談が結ばれ、安心したかのように数カ月後、母スエノは亡くなった。享年48、死因は心臓麻痺。働き詰めの人生だった。
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 元さんの母スエノには、戦死した前夫がいた。その間に一人息子ができたが、婚家に残し元さんの父義一と再婚。後に元さんは異父兄と会っている。
 元さんが病気でベレンに入院していた頃は、異父兄が書いた自分史が贈られた。「『同じ腹を痛めた弟のお前にやるから、これを読んで頑張ってくれ』と言われたんです」と、元さんは何度も繰り返し微笑んだ。
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 母が亡くなり、山田家は深い悲しみに包まれた。そんな気持ちを振り切るかのように、父義一の「早く嫁にもらいなさい」という言葉もあり、46年5月、元さんは豊江と結婚披露宴を行った。共に18歳、若い二人の門出を皆が祝福した。
 この時の気持ちについて、元さんは「いやね、本当はこの頃女なんか恐ろしかったんだよ」とユーモアたっぷりに語る。「今と違って、当時は男女の交際に厳しかったから。恥ずかしい話だけどね」。
 結婚し晴れて夫婦となった二人は、精米所に住み始め、昼も夜もなく働いた。ここでは、長女の里子と次男の充が生まれた。
 元さんは精米所があった水車小屋には長らく訪問していなかったが、09年に本紙記者の依頼で50年ぶりに訪れた。その場所は木が生い茂っており、変わり果てた姿になっていた。(つづく、有馬亜季子記者、一部敬称略)


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山田元さんが入植当時のアカラ植民地は、「元々インディオ(先住民)しか住んでいなかったような場所」というような未開の地。当時米の収穫時期には、同地から500キロ離れたパラ州カメタ郡から、1週間かけて応援に来たという。カヌーに乗って川を下りながら来たカメタ郡の人達は、「途中でビショ・プレギッサ(ナマケモノ)を掴まえて土鍋で煮て食べていたんですよ」。元さんは、「肉が固くて5時間くらい煮ないと食べられないんですよ。でもあの時はあれしかなかったんだ」と説明。ちなみに肉は固い割に草食動物だからか癖はなく、味はそこそこ美味しかったのだとか。これも日本人移民の逞しさを感じる逸話。