1941年12月7日(ハワイ時間)、米国のハワイ準州オアフ島真珠湾において日本海軍による攻撃が行われ、米国との戦争が始まった。祖国から遠いアカラ植民地だったが、42年1月に対日国交断絶が布告されると、邦人は敵性国人として扱われた。
日本移民たちは家宅捜索を受けた。日本文字の書類及びラジオ等の没収、日本語会話の禁止、3人以上の集会禁止などが命じられ、違反者は投獄された。
その時、山田元さんは精米所に通う働き詰めの日々を過ごしていた。禁じられていた日本語の勉強も隠れて行っていた。「幸いなことにうちの母は交際家だったからね。ブラジル人との付き合いもあったし、家族は牢屋に入れられることはなかったですよ」。
同年8月18日、ベレン沖でブラジルの商船がドイツ潜水艦に撃沈されると、山田家の状況は一転した。ベレン在住の日本人の家を、ブラジル人の暴徒が襲撃放火をする事件が相次ぎ、日本移民は命の危険にさらされた。
さらに連邦政府は、アカラ植民地自体を枢軸国人の強制収容地区に指定したので、サンタレーンなどパラー州全体から日本移民が立ち退かされてここへ集められた。多くの同胞はそれまで築いた財産を捨てて、着の身着のままで逃げ込んできた。
アカラ入植者たちは貧しい暮らしながらも、気の毒な在伯同胞を各家庭に受け入れた。元さんの家にも、ベレンから来た2家族を受け入れた。「高島さんと渡部さんという家族を、1年くらい預かりました。8人ぐらいだったかな。よく仕事を手伝ってくれたんですよ」。
こうして敵性国人としての重圧を受けつつも、アカラ植民地の人々は日本の勝利を信じ続けた。こっそりと聞く東京ラジオが伝える大本営発表の祖国大勝のニュースに一喜一憂し、戦果に酔いしれた。
ところが45年8月14日(ブラジル時間)、東京ラジオから流れてきたのは全日本国民へ発表された、全面降伏を認める玉音放送だった――。
祖国敗戦の絶望的な知らせは、人々の心を打ち砕いた。帰ろうと願い続けた故郷の消滅。アカラの人々の多くが、永住を決意せざるをえなくなった。(つづく、有馬亜季子記者)
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