「一時期はね、ピメンタを100トン以上採った年が何度かあったんだよ。あの時は凄かったんだ」――カカオやピメンタがあった農場を思い出し、元さんの声の調子が上がった。絶望の淵にいたトメアスー植民地の逆転劇の主役となったのは、“アマゾンの黒ダイヤ”だ。
アカラの植民者たちは、入植当初から米の安価や、営農作物予想の失敗、現地ブラジル人の野菜を食べる習慣がないことなどの壁にぶち当たり、先の見えないトンネルを二十数年間も歩き続けた。当時は野菜の食べ方を教え、言葉の壁は何とか筆談で乗り切った。
当然、マラリアなどの風土病の猛威に何度も侵される恐怖や、黒水熱(こくすいねつ)など死亡率の高い病の犠牲者が絶えないことも、貧困のどん底にいた植民者たちに追い打ちをかけ、退耕者が後を絶たない原因となっていた。
移民監督官だった臼井牧之助氏(実娘は女優の小山明子、夫は映画監督の大島渚)は、1933年に南拓社員としてシンガポールで南洋種胡椒の苗を買い求め、トメアスーに持ち込んだ。この2本の苗が、戦後になって注目された。それまで生産国1位だったインドネシアの胡椒の栽培が激減し、価格が高騰したのだ。
54年には、組合員数78人で800トンを生産、総売上高は約8億3500円。“ピメンタ・ド・レイノ黄金時代”に突入した。
「うちもピメンタのお蔭でこの家を建てました」。取材で訪れた元さんの家も、50年代からのピメンタ景気によって建てられた“ピメンタ御殿”だ。少し古いが丈夫そうで、どこか懐かしい気持ちにさせる。建てたのは54年で、延べ床面積500平米の二階建て。一時期はここに15人ほど住んでいたという。
「父が5人の連れ子がいる人と再婚したんですよ。それでさらに3人生まれて、うちも子がいたから、この家いっぱいに人が住んでいたんです」
このピメンタ景気のお蔭で金銭的にも余裕ができた元さんの父義一(よしかず)は、54年に万感の思いで祖国に降り立った。「10年で戻る」と誓って渡伯した29年から、実に25年の歳月が流れていた。(つづく、有馬亜季子記者、一部敬称略)
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トメアスー移住地について資料を読めば読むほど、想像を絶する苦労に驚愕する。例えば「アカラ野菜組合」を発足し、ごく一部の上流階級しか食べない野菜を販売し始めた涙ぐましい努力。ちなみに大根を主とした野菜の食べ方から教えた日本人移民を、ベレン市民は「ナーボ(大根)」とも呼んでいたという。
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トメアスー移住地では、外部は赤道直下の太陽に焼かれ、内部マラリアが慢性化し肝臓を侵されて、皮膚がどす黒く濁った色に変わっていた。「マラリア色」「アカラ色」と呼ばれ、ベレン市に出るとアカラの人だとすぐに分かる程だったとか。この治療のために、特効薬「キニーネ」で治療を受けたことで誘発されたのが「黒水熱」。赤い尿が出たことから、別名は「赤しょうべん」という。これは当時命とりの病気とされ、この病気への恐怖が退耕者続出に拍車をかけた。