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赤間学院=財団改組60周年を祝う=優秀な日系人材育て続ける=「教育で公平な社会実現を」

式典の様子

 1933年に創立された伝統校「赤間学院」(ピオネイロ教育センター)が現在の赤間みちへ財団法人(重道フェルナンド・ノブオ理事長)に改組して60年目を記念した祝賀式が、今月21日にサンパウロ市ヴィラ・クレシメンチーノ区の同校舎で開催され、252人が出席した。現在も日系人の生徒が70%を占めており、ブラジル社会で活躍する優秀な人材を育てている。サンパウロ裁縫女学院時代に学び、平均年齢80代となった卒業生らも出席し、今まで続く同窓の友情に感謝しつつ思い出話に花を咲かせた。

 式典は太鼓チームの演奏で開幕し、パウロ・ギリェルメ・アマラル・トレド評議員会会長、野口泰在サンパウロ日本国総領事、重道理事長、アイルトン・グラッジオリサンパウロ州検察官らが登壇した。
 石塚克興(かつおき)氏と共に表彰されたトレド評議員会長は「質の高い教育によって、倫理観を備えた公平な社会が作られる。この考え方は私や子供達、ここで学んだ者の心の中に根付いている」と述べた。
 重道理事長は「赤間みちへ先生の夢は、若者たちを大学まで連れて行くことだった。私たちはその思いを受け継ぎ運営している。より良い教育内容に練り直して次世代に引き継ぐ」と継続的な成長への思いを語った。

水上真由美さんと堤照子さん

 サンパウロ裁縫女学院時代の同級生4人と来ていた第三アリアンサ出身の水上真由美さん(89、二世)は、開口一番に「私はコジニェイラ(炊事係)だったのよ」と笑った。51年に裁縫を学びたいと希望し、赤間みちへさんの提案で寄宿舎で2年間炊事係として100人分の食事を作りながら、同女学院に通ったという。
 水上さんは「2年後、赤間先生に勧められてサンパウロ州日本語教師検定試験を受験し、苦労して試験に合格した。当時の新聞にも名前が載ってね、それを見た人からクレメンチーナで日本語学校の先生になってほしいと言われたの」と振り返る。
 当時は勝負抗争の余波が残っている時代で、「あそこは勝ち組が多くてね。勤め始めたばかりの頃に天長節の挨拶で『人間天皇』という言葉を使ったら、皆の前で酷く叱られた。辞めたくなったが、赤間先生に力づけてもらった。先生を見習って頑張れば大丈夫と鼓舞したのよ」と恩師への感謝を述べた。
 マイリポラン出身の堤照子さん(84、二世)は、「13歳で女学院に入り、裁縫と日本語を学んだ。裁縫の検定試験を17歳ごろに受けて、3年ぐらい学校で裁縫を教えた。私が教えた生徒はよく覚えて洋裁の道に行く人も多かったんです」と笑顔を浮かべた。「何より、今まで続くかけがえのない友人を得ることができたことが一番良かったわ」と語った。
 式典では、故赤間みちへさんや卒業生らを映したビデオが流れ、水上さんは自分の姿が出てくると友人と顔を見合わせ恥ずかしそうに笑った。
 野村アウレリオ市議の代理で桂川富夫さんから表彰プレートがトレド評議員会長と重道理事長に手渡された。式典終盤には野口総領事と創立者家族代表で赤間エドソンさんが60周年記念プレートの除幕式を行った。


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 堤照子さんは、サンパウロ裁縫女学院に通う前の戦中についても語った。「戦争中は日本語の勉強が禁止だったから、紙に書かないで、板張りにマグカップに水を入れて、それで日本語を書いて練習していた。紙に書くと捕まっちゃうでしょう」と説明する。見張りを立てながら、人が来ると慌てて本を隠していたそうだ。「あの時代は大変だった」という戦時中の話には、何度聞いても驚かされる。
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 秋末麗子さん(88、二世)は1951年にサンパウロ裁縫女学院へ入学。「母親は裁縫を勧めたんだけど、赤間先生が半年だけでもと授業を受けるよう勧めてくれたの」とし、数学、理科、言語、音楽など幅広い教育を受けた。55年には日本語教師免許を取得し、同女学院に3年半務めた。赤間みちへさんがどんな人だったか尋ねると「赤間先生は親しみが湧くというより尊敬すべき人。完璧主義者で、裁縫を仕上げると先生が見て細かく採点していたわ」と思い出を振り返った。